63 dotstokyoが時代を折り返す[Remix] for Tokyo_in_Picture

「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」

(・・・・・・・・・5thワンマンライブ「Tokyo_in_Picture」フライヤーより)

(演出家によって)表現されることで姿が立ち上がり、演じる彼女は、まるでTwitterやYouTubeで見かけたあの子そのものだ。デリカシーのない訳をするとたぶんこうなるんじゃないかと思う。ものごとにこういう返しをするやつはたぶん女の子に嫌われるけどとりあえず今回はそういう話じゃない。

あくまで、ステージに立ち、あるいはチェキ会に現れる彼女らは、「・ちゃんが女の子の形をとった姿」でしかないという。それがドッツの“前提”になっている。そういう感じらしい。

正直申し上げるとたまに忘れる。いやだって可愛いんだもん。赤いリボンの似合う・ちゃんいるじゃないですかー常軌を逸してますよねあの可愛さは。現場に行ってなくても日々公式があげる写真やメディア露出や他の観測員のみなさんや自分が撮った写真を見て「はぁやっぱ可愛いなぁ…💕」となってますけど、いざ現場で見ると本物の本物感に圧倒されてしまいますよねーこの語彙力の低下はオタクの特技にして習性にしてダメなところにしてきわめて純な素直さです。
でもそこに落とし穴というか溝というかがあって嵌ってしまったというか、いやむしろツルハシとロープが落ちていたというか。

コンセプト担当の説明では、この都市=アイドルは、情報や人やモノを生み出すエネルギー=流れであると規定されています。女の子としての・ちゃんは、こうしたエネルギーが私たちに観測されている一つの形態に他なりません。

(scarlet222さんの記事から引用)

会場までの移動中や仲の良いアイドルとのプライベートでさえも目隠し(のように我々には見える顔の鼻の上あたりにあるあれ)を外さないという徹底されたこの装飾によってドッツがもたらすものは、''アイドルの記号化''ではないかと自分は感じている。メンバーのひとりひとりが表現として立ち上がっているように見える。全員が全員''あるアイドルの肖像''であるかのようだ。あとで聞けばそれはアイドルどころか「ある女の子」の肖像であるらしい。なおこの「ある」が指す具体的な人物はいない。それは姿として立ち上がった彼女らを観た人が、その中に垣間見る個性や顔立ち・背格好に各々投影する存在である。それは思い出の中の特定の誰かかもしれないし、記憶にあるものらを継ぎ接ぎしたキメラ的なものなのかもしれない。

だからこそ、(カラクリに口を出すのは無粋だけれども)ステージに立ちSNSでも姿を見せる彼女らが“一個人”なのが間違いなかったとしても、それはこの表現の上ではあくまで「その時々に収束して形を成している存在」にすぎないのだといえる。つまり、たとえばこの間のライブでチェキを撮った赤いリボンの似合う・ちゃんは、YouTubeで駄菓子を紹介している・ちゃんと同一人物に見えるけれど、同じ個体という保証はどこにもないのだ。

同一人物のように見えるのは、記録と記憶のツギハギリレーによる。・ちゃんには「認知」をされる。前回会ったときの記憶を有した・ちゃんがそこにはいる。チェキ会の音声は録音されており、撮影した客にデータが手渡される。撮ったチェキと、香りや味(タブレット)も渡される。*1 情報がいくつも提供される。各個人の脳の中で、各・ちゃんは継続的に存在する実体として認識される。

訓練された観測員は無記名で無作為に並ぶ彼女らのブログの、どれが誰かを識別できたりする。しかしながら代筆やゴーストライターの可能性もある。メンバー(という語もこの文脈だとどこか不自然だけれど)が互いにそれをするという幻術めいたことも起こっているかもしれない。

人間の細胞は半年ほどですべて入れ替わってしまうとどこかで聞いたことがある。これを哲学的に考えると、だいたいこれまで書いたことと似たようなことになる。こういうことを日々考えながら生きているとしたら、そうとうめんどくさいやつだと思う。俺か。。。


もう一点キーワードとして提示されたのが「時代に逆行する」ライブであるということ。

そもそも日本文化の中でアイドルの元祖とは昭和歌謡の中から生まれたものだ。たぶんそうだ。正確には「アイドル的人気を博した歌手」だが、世間一般の文脈ではアイドルとして語られている。

昭和のアイドルといえば、純潔なイメージを保つことがなにより優先されていたという印象が強いのではないだろうか。「う○こはしません」みたいなことである。極端な例では海外とのマネジメント契約下でのプリンセス天功なんかと同じで、「夢を壊しちゃいけない」という発想をエクストリームにキメているのである。彼女は寝るときの服装まで契約で決められているそうだ。パジャマを着たくてもネグリジェしか着れないとかなんとか。えろ。

とかくプライベートに関しては秘密主義のオンパレードだった印象がある。生い立ちやバイトの話などするはずもなく、明らかに庶民とは別次元の存在としてプロダクトされていたし、そうあることがアイドルの条件だった。

それを打ち崩してきたのがでんぱ組.incの「W.W.D」シリーズに代表される2010年代の地下アイドルシーン。「IDOL AND READ」という生い立ちの話をはじめ深くアイドル個人を掘り下げる1on1のインタビュー集であったり、内面をエグいほどほじくり見比べられる(という印象がある)「ミスiD」というコンテストだったりもあり、とにかく人間的なところを追求されるようになってきたのが昨今のアイドル事情であるように思う。最近の地下アイドルはバイトの話とかフツーにするし。

dotstokyoはそんな個性派グループアイドル時代も安定期になって久しい雰囲気の地下アイドルの文脈に生を受けながら、古典的な秘匿性の高いアイドルのストリームに突っ込もうとしているように見える。だから''王道''に見えるのだ。たぶん。
もちろん・ちゃんたちも私生活を語るのだが、先述の通り個体の同一性には保証がない。・ちゃんたちはあるアイドルや女の子の肖像であり、「形をとる」というパワーワードにより、“そこにいるけれど夢幻の存在”と化す。

ところで「時代に逆行する」というキーワードを提示された上で、そもそもアイドルとはなんぞや?という疑問も出てきたりする。なんかバーミヤン行きたくなってきたけどがんばって続きを書く。


Wikipedia「アイドル」の項から丸パクリした文章が下記である。

アイドルとは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を意味する英語(idol)に由来し、文化に応じて様々に定義される語である。

日本の芸能界における「アイドル」とは、成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物を指す。

キャラクター性を全面に打ち出し、歌・ダンス・演技・お笑いなど幅広いジャンルで活動を展開しやすいのが特色である。外見が最も重要視されるモデルとは異なり、容姿が圧倒的である必要はなく親しみやすい存在であることが多い。

一方で、はっきりと目には見えない“華”や“人間的魅力”が強く求められるため、一流のアイドルは手が届きそうで届かない存在となる。

・ちゃんたちは実に魅力的だ。1年ほど前までは酷かったそうなのだが、いま現在パフォーマンスはぶっちぎりでカッコいい。ダンスのキレ、声の強かさ、コンビネーション、グルーヴ、どれもエネルギッシュでときにアーティスティックだ。話せば普通の女の子のようでもあるが、表現者としてステージに立ったとき、やはり高いステージにいることがわかる。しかも1年前のステージの映像を見ると、その成長速度にも驚かされる。その素質たるや。舞台の高さが客席よりも高いことが多いのは、なにも見えやすくするためだけではないように思える。「聖域」という言葉がある。

「親しみやすくも人間離れした」という意味で、ステージに立つ・ちゃんたちは紛れもなくアイドルの定義のなかにいる。手が届きそうで届かない存在感だ。
しかしながらコンセプト上、・ちゃんたちは霧散と収束を繰り返す存在であるように思える。個体の同一性が保証されないという話にもつながってくる。
1人の・ちゃんは10万人の女の子であり、彼女らは都市そのものなのだという。
個を排された上で「成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物」とする定義が果たして当てはまるのだろうか。そして、それでも王道に見えてしまう要因はなんなのか。

アイドルの定義のなかにある「親しみやすさ」について考えてみてはどうか。「親しみやすさ」とはなんだろう。気心知れた友人のように感じられることだろうか。それは「親しんでいる人たちとの関係性やその人たち自身を投影させることのしやすさ」ではないだろうか。
ともすれば、「女の子の肖像」として立ち上がった彼女たちに各々が投影する「ある女の子」の姿にそれも含まれるのではないだろうか。


ストロボカフェという全面白壁のライブハウスで、映像をステージ全面に投影してライブをしているのを観たことがある。そのライブでは、・ちゃんたちの衣装すらもスクリーンと化し、表現に組み込まれているかのようだった。


「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」


姿を描かれ、書かれた物語を演じる彼女は、いつか見たあの人のようだった。それは誰にも違った形で同じようにそうなのだろう。


ここに話の結論はない。初演が未だの舞台のパンフレットに寄稿された演劇ライターの文章のような、入口と過去だけを見て膨らませたような思考の羅列だ。
そして今回のキネマでのワンマンは、初めてdotstokyoを観たときに感じたことになにかリンクしているコンセプトな気がしている。
あの日に感じたことがどのように帰結するのか。見たことも聞いたこともない国にわずかな情報を頼りに心許ない準備をするような記事はここで終わる。あとのことはキネマにほとんどあるんじゃないだろうか。

*1:ちなみに推し・ちゃんはこれをよく忘れる。しかしそれすらも記憶であり情報である。