63 dotstokyoが時代を折り返す[Remix] for Tokyo_in_Picture

「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」

(・・・・・・・・・5thワンマンライブ「Tokyo_in_Picture」フライヤーより)

(演出家によって)表現されることで姿が立ち上がり、演じる彼女は、まるでTwitterやYouTubeで見かけたあの子そのものだ。デリカシーのない訳をするとたぶんこうなるんじゃないかと思う。ものごとにこういう返しをするやつはたぶん女の子に嫌われるけどとりあえず今回はそういう話じゃない。

あくまで、ステージに立ち、あるいはチェキ会に現れる彼女らは、「・ちゃんが女の子の形をとった姿」でしかないという。それがドッツの“前提”になっている。そういう感じらしい。

正直申し上げるとたまに忘れる。いやだって可愛いんだもん。赤いリボンの似合う・ちゃんいるじゃないですかー常軌を逸してますよねあの可愛さは。現場に行ってなくても日々公式があげる写真やメディア露出や他の観測員のみなさんや自分が撮った写真を見て「はぁやっぱ可愛いなぁ…💕」となってますけど、いざ現場で見ると本物の本物感に圧倒されてしまいますよねーこの語彙力の低下はオタクの特技にして習性にしてダメなところにしてきわめて純な素直さです。
でもそこに落とし穴というか溝というかがあって嵌ってしまったというか、いやむしろツルハシとロープが落ちていたというか。

コンセプト担当の説明では、この都市=アイドルは、情報や人やモノを生み出すエネルギー=流れであると規定されています。女の子としての・ちゃんは、こうしたエネルギーが私たちに観測されている一つの形態に他なりません。

(scarlet222さんの記事から引用)

会場までの移動中や仲の良いアイドルとのプライベートでさえも目隠し(のように我々には見える顔の鼻の上あたりにあるあれ)を外さないという徹底されたこの装飾によってドッツがもたらすものは、''アイドルの記号化''ではないかと自分は感じている。メンバーのひとりひとりが表現として立ち上がっているように見える。全員が全員''あるアイドルの肖像''であるかのようだ。あとで聞けばそれはアイドルどころか「ある女の子」の肖像であるらしい。なおこの「ある」が指す具体的な人物はいない。それは姿として立ち上がった彼女らを観た人が、その中に垣間見る個性や顔立ち・背格好に各々投影する存在である。それは思い出の中の特定の誰かかもしれないし、記憶にあるものらを継ぎ接ぎしたキメラ的なものなのかもしれない。

だからこそ、(カラクリに口を出すのは無粋だけれども)ステージに立ちSNSでも姿を見せる彼女らが“一個人”なのが間違いなかったとしても、それはこの表現の上ではあくまで「その時々に収束して形を成している存在」にすぎないのだといえる。つまり、たとえばこの間のライブでチェキを撮った赤いリボンの似合う・ちゃんは、YouTubeで駄菓子を紹介している・ちゃんと同一人物に見えるけれど、同じ個体という保証はどこにもないのだ。

同一人物のように見えるのは、記録と記憶のツギハギリレーによる。・ちゃんには「認知」をされる。前回会ったときの記憶を有した・ちゃんがそこにはいる。チェキ会の音声は録音されており、撮影した客にデータが手渡される。撮ったチェキと、香りや味(タブレット)も渡される。*1 情報がいくつも提供される。各個人の脳の中で、各・ちゃんは継続的に存在する実体として認識される。

訓練された観測員は無記名で無作為に並ぶ彼女らのブログの、どれが誰かを識別できたりする。しかしながら代筆やゴーストライターの可能性もある。メンバー(という語もこの文脈だとどこか不自然だけれど)が互いにそれをするという幻術めいたことも起こっているかもしれない。

人間の細胞は半年ほどですべて入れ替わってしまうとどこかで聞いたことがある。これを哲学的に考えると、だいたいこれまで書いたことと似たようなことになる。こういうことを日々考えながら生きているとしたら、そうとうめんどくさいやつだと思う。俺か。。。


もう一点キーワードとして提示されたのが「時代に逆行する」ライブであるということ。

そもそも日本文化の中でアイドルの元祖とは昭和歌謡の中から生まれたものだ。たぶんそうだ。正確には「アイドル的人気を博した歌手」だが、世間一般の文脈ではアイドルとして語られている。

昭和のアイドルといえば、純潔なイメージを保つことがなにより優先されていたという印象が強いのではないだろうか。「う○こはしません」みたいなことである。極端な例では海外とのマネジメント契約下でのプリンセス天功なんかと同じで、「夢を壊しちゃいけない」という発想をエクストリームにキメているのである。彼女は寝るときの服装まで契約で決められているそうだ。パジャマを着たくてもネグリジェしか着れないとかなんとか。えろ。

とかくプライベートに関しては秘密主義のオンパレードだった印象がある。生い立ちやバイトの話などするはずもなく、明らかに庶民とは別次元の存在としてプロダクトされていたし、そうあることがアイドルの条件だった。

それを打ち崩してきたのがでんぱ組.incの「W.W.D」シリーズに代表される2010年代の地下アイドルシーン。「IDOL AND READ」という生い立ちの話をはじめ深くアイドル個人を掘り下げる1on1のインタビュー集であったり、内面をエグいほどほじくり見比べられる(という印象がある)「ミスiD」というコンテストだったりもあり、とにかく人間的なところを追求されるようになってきたのが昨今のアイドル事情であるように思う。最近の地下アイドルはバイトの話とかフツーにするし。

dotstokyoはそんな個性派グループアイドル時代も安定期になって久しい雰囲気の地下アイドルの文脈に生を受けながら、古典的な秘匿性の高いアイドルのストリームに突っ込もうとしているように見える。だから''王道''に見えるのだ。たぶん。
もちろん・ちゃんたちも私生活を語るのだが、先述の通り個体の同一性には保証がない。・ちゃんたちはあるアイドルや女の子の肖像であり、「形をとる」というパワーワードにより、“そこにいるけれど夢幻の存在”と化す。

ところで「時代に逆行する」というキーワードを提示された上で、そもそもアイドルとはなんぞや?という疑問も出てきたりする。なんかバーミヤン行きたくなってきたけどがんばって続きを書く。


Wikipedia「アイドル」の項から丸パクリした文章が下記である。

アイドルとは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を意味する英語(idol)に由来し、文化に応じて様々に定義される語である。

日本の芸能界における「アイドル」とは、成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物を指す。

キャラクター性を全面に打ち出し、歌・ダンス・演技・お笑いなど幅広いジャンルで活動を展開しやすいのが特色である。外見が最も重要視されるモデルとは異なり、容姿が圧倒的である必要はなく親しみやすい存在であることが多い。

一方で、はっきりと目には見えない“華”や“人間的魅力”が強く求められるため、一流のアイドルは手が届きそうで届かない存在となる。

・ちゃんたちは実に魅力的だ。1年ほど前までは酷かったそうなのだが、いま現在パフォーマンスはぶっちぎりでカッコいい。ダンスのキレ、声の強かさ、コンビネーション、グルーヴ、どれもエネルギッシュでときにアーティスティックだ。話せば普通の女の子のようでもあるが、表現者としてステージに立ったとき、やはり高いステージにいることがわかる。しかも1年前のステージの映像を見ると、その成長速度にも驚かされる。その素質たるや。舞台の高さが客席よりも高いことが多いのは、なにも見えやすくするためだけではないように思える。「聖域」という言葉がある。

「親しみやすくも人間離れした」という意味で、ステージに立つ・ちゃんたちは紛れもなくアイドルの定義のなかにいる。手が届きそうで届かない存在感だ。
しかしながらコンセプト上、・ちゃんたちは霧散と収束を繰り返す存在であるように思える。個体の同一性が保証されないという話にもつながってくる。
1人の・ちゃんは10万人の女の子であり、彼女らは都市そのものなのだという。
個を排された上で「成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物」とする定義が果たして当てはまるのだろうか。そして、それでも王道に見えてしまう要因はなんなのか。

アイドルの定義のなかにある「親しみやすさ」について考えてみてはどうか。「親しみやすさ」とはなんだろう。気心知れた友人のように感じられることだろうか。それは「親しんでいる人たちとの関係性やその人たち自身を投影させることのしやすさ」ではないだろうか。
ともすれば、「女の子の肖像」として立ち上がった彼女たちに各々が投影する「ある女の子」の姿にそれも含まれるのではないだろうか。


ストロボカフェという全面白壁のライブハウスで、映像をステージ全面に投影してライブをしているのを観たことがある。そのライブでは、・ちゃんたちの衣装すらもスクリーンと化し、表現に組み込まれているかのようだった。


「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」


姿を描かれ、書かれた物語を演じる彼女は、いつか見たあの人のようだった。それは誰にも違った形で同じようにそうなのだろう。


ここに話の結論はない。初演が未だの舞台のパンフレットに寄稿された演劇ライターの文章のような、入口と過去だけを見て膨らませたような思考の羅列だ。
そして今回のキネマでのワンマンは、初めてdotstokyoを観たときに感じたことになにかリンクしているコンセプトな気がしている。
あの日に感じたことがどのように帰結するのか。見たことも聞いたこともない国にわずかな情報を頼りに心許ない準備をするような記事はここで終わる。あとのことはキネマにほとんどあるんじゃないだろうか。

*1:ちなみに推し・ちゃんはこれをよく忘れる。しかしそれすらも記憶であり情報である。

62 『秘密の花園』

RooTS Vol.5「秘密の花園」
作・唐十郎
演出・福原充則


他人のススメで観たり聴いたりとかそこまでしない人なのですが、話を聞いてからなんだか無性に気になってチケットを買って観てきました。
唐十郎作品を観るのは初めてです。福原充則演出は7年ほど前に「墓場、女子高生」を観たっきりです。すさまじくフラットな素人観劇でございますが(これは自分が常にしていたいものですけれども*1 )、観終わってすぐの感想を書き殴ります。
ちなみにすぐって言いながらも寝る前とかに追記補記を繰り返していました。大人ってずるいですね。平面の裏側って見えない!





純粋とはもっともおそろしくおぞましく奇跡がおきたように狂った清潔であるようです。でもたとえば「常」といわれるものら(常人とか常態とかですよ)が店に並ぶ宝石だとしたら原石ってもっとその表面は八百万の冒険小説をアトランダムにリミックスしたやつみたいになってるはずじゃないですか。整ったかたちの方がよっぽど異常かもな、とか。「純粋とはねじれた形のことだなァ」とか言うこともできるんでしょうけど、それはうそつきみたいでなんかいやです。それをうそだと知らないうそつきみたいで。

ボロアパートの一間でなんだかSASUKEをブレイクなしで一気に突き進むような言葉尻を掴んでは飛躍させまくるさながら猿とウォンバットとハイエナを掛け合わせた魔物が空に浮かぶ島に鬱蒼と生い茂る異常成長したジャングルの巨木群の合間をデタラメに飛び回りながらも何気にちゃんとエサは狩っているような会話が延々と続いていて、もう「ボロアパートに白熱灯か蛍光灯以外の灯り」だけですべてが滑稽になるというのにそんな調子も乗せるので挿入的にでもなくあっさりと超現実がキマっている風景。そんなものをやわらかにケラケラ可笑しいなァとぬる~く観ていたら、この世に穴をあけたような刹那が突然来てぐわっと汗をかきました。もってかれたってのはこういう感覚のときに使う言葉です。辞書に載せてくれ。
空想も現実も仮想世界も瞬きもせず見ていたのにセル画の2枚目に突然ひび割れた大穴を書き足すような慇懃無礼な崩壊と空洞、闇な宇宙をぽっと置いてしまったような昔のアニメの作りの中にぶちこめる瞬光的ワンカット。なんだこいつ的な。ポカンとまぁしてやられたわ的な。もちろん演劇だから積んだ先を観に来てるところがあるのですけど、あそこまでエクストリームワンダーランドしてたものが心臓を直で殴るタイプの共感可能な現実の展開に一気に収束したもんで、たぶんあの瞬間に1kgほど痩せてる。


休憩が明けて後半、なにやら差し戻された空気の先で、結果としてそこにはこの世のぜんぶがあった。パンフレットで語られていたことを心と脳の深いとこのすごく妙な形をした臓器みたいな芯的なところでわかってしまった。これはあくまで「自分には自分のワカリがある」という前提なのでワタクシの世界の話でございって感じなので、黙って聞いてください。人の感想ってのはそういうもんですよね。誰しもさ。



隠しているぜんぶ隠している。みんな隠している。俺も隠している。最期までわからない。狂ったように見えるただの純粋さんが意志と理性を以てぜんぶを終わらせた最期になるまでわからない。あとたぶんふつーという混沌の最期ならそれはわからない。


まっさらなグレーのスーツは自分の脳とか心臓をはじめとした広範囲に除夜の鐘でも貫くのかってくらい太い釘でぶっ刺された日に寝て翌朝起きてあたりまえに来る次の日の違和感を感じない違和感すら感じない寝起きとりあえず口ゆすいで水飲んで仕事行かなきゃ飯食って着替えてああそろそろ遅刻しそうだやっべえゴミ捨てしてる暇ねぇわ来週になっちゃうつらっみたいな朝と同じだった。

思えば自分にも異世界のような時間を過ごしたことだってあるのに、あっという間にただの思い出じゃないか。劇中ではあんなにわけのわからない魔界みたいなことがあったのに(あれはでも万象の皮膚剥いだ肉とか臓物ってこういうことじゃないか)あっという間にただの思い出じゃないか。わけわかんねえがあっという間にわかってしまったじゃないか。その瞬間瞬間については超現実とか言ってたくせにつらつら談笑の中で語れてしまう思い出にすっかりなってしまってるじゃんと思ったら、あっという間にと金が歩にひっくり返るがごとく先刻の魔界が浮世に成り下がってきた。*2

なんやかんやしといて結局ほうほうラストはロマンチックに向けたりあざといことする感じの感じになるかと人気のない駅の高架と曇り空とぬるい風も吹かないライトグレーの感傷風なノリの先、最後の最後の最後の最後で突然来るあの瞬間は人生で何度か起こるあれじゃないか。油断したところでなにか仕掛けてくるだろうとは思っていたけどすんげえ重い一撃もらいました。音だけで。


ふつーの暮らし。よくあるイッパンテキとかいうやつ。なじむべき社会。ないしはレゲエでいうところのバビロン。しくみのなかで生きる方法ちゃんと知ってるみなさん。家庭と地域と義務教育と高等教育と社会勉強をちゃんとあるいたみなさん。あるけたみなさん。すっかりねじ曲げられてしまってんだね。
ありのままの自分とかさー幸せとか、あー自分には自分のためのえげつない4Dダンジョンのような道があるもんなんだね。無理です。無理です。いまさらです。だれもがみんなかなしくなるわけじゃないけれど、何重にも何重にも肉で皮膚で服で布団で鎧で核シェルターで隠し切れた人がそれなりにふつーと言われる幸せを手にしてまぁそこそこ幸せですかねとか言うし多少なり闇を抱えてでもやっぱり肉の下のことには気付くことすらないんだなそれがいいかどうか自分は知らない。
自分に対して正直なものでまったくうまく生きられないから社会のなかではゴミだなぁと思うしでも一方で社会除いたらまぁそこそこじゃねとか思う自分ですけど(生物の本能とかで考えると非道い不義理を働いてきた自分ではありますが)、いろんな層をめくり続けてそれでも自分が素直に喜べる世界はいちばんギラギラした歳のロックスター(それもメロディーの美しさなんかより速弾きやノイジーな奏法をキチガイのように好むタイプ)のアドリブ全開の10分に及ぶギターソロのように異常に縦横無尽で重力の概念すら無視したギャラクティックで炸裂的な一本道しかないのだなって思います。

小学生のころ、指のつけ根のあたりにかさぶたができました。
ポリポリ掻いて、そのうちかさぶたを剥きはじめて、何日も剥き続けて、できかけの体液の凝固すらも取り除いて、いつしかヤバいなって思うところまでいったとき、白いものが見えました。軟骨ってやつでしょうか。さすがに現代社会の文明下に生きるこどもとしてというか人間(社会的動物)としてヤバいなと思ってすぐにばんそうこうを貼りました。
自分はずっと世の中に対してそういうことをしているのかもしれません。観るもの、触れるもの。フィルターをはずした最後の最後がみたい。だいたい同じものなんじゃないか。世の中のことってほんのいくつかが無量大数のバリエーションで虚飾されてるだけじゃないかって。理由がなくなるラインとか。

だからそんなことを「秘密の花園」から嗅ぎ取ったりするのかもしれません。めくってしまったなぁ、的な。めくられてしまったぞ、的な。全体像的には肉の下の細胞やきもちを見るために服を脱がす、そのために部屋で二人きりになる、そのために口説く、そのためにetc.etc......みたいな。これ別にそんな猟奇的なサイコサスペンスの話じゃないんだけど。あのー構造的なところで。

なにげなく死んでいた日々の風景がうぞうぞと動きだしそうで週明けの仕事に行くのがちょっとこわいです。

*1:知識ある立場から比較や考察・論評をして、ネイキッドな感受を阻害されるのがいやなのです。それはしばしば「作品の本質」を見逃すことになるからなのです。なにか作品に触れるにあたっては(それがパロディなどを楽しむものでなければ)自分という人間の中に築き上げた文化すらフィルターとなって心の眼を阻み、邪魔であることのほうが多いように感じます。

*2:ちなみに実際の将棋ではと金は歩に成れない(戻れない)そうです。

61 インフルエンザでもみあげが大変だった

ここ何年かのインフル、熱がそんなに高くならないと聞いたのでそれ以外の症状で判断するようにしてます。

風邪っぽいとかなかなか熱が下がらないとかお腹下してるとか頭痛いとかありますが、一番の決め手は「どこをどう使ったらそんなとこ痛くなるんだよ」という部分の筋肉の痛みが続くことです。
だいたい病院行くと「熱そんなにないしなぁ」とインフル検査別によくね?みたいな雰囲気を先生醸し出されるんですが、この自己基準を信じてうるせぇ検査しやがれくださいとお願い申し上げるとだいたいヒットするのです。今年もインフルになりました。おそらく2日か大晦日あたりからです。

インフルは大変ですよ。一番しんどいときは悪夢を見ます。寝てるのか起きてるのかわからないやつ。
今回は喘息と併発していたこともあり、呼吸が浅いので夜中ベッドで三枚重ねの布団にくるまりながらしかし寒気に震えながら息吸ってうめき声吐くみたいなことをしていたわけです。で、そのたびになんか身体が横に細く千切れてく感覚があるんですね。おぞましいですよ~。
で、しかもなんか作業みたいなんです。進捗がある。終盤に向かうにつれて、だんだん千切れる感じのものがなくなってフラットになってゆく。終わってみれば皮剥きのような。どうやらこれは体温が上がって楽になるまでの進捗だったようです。でもほんとあれは寝てたんだろうけど寝た気がしませんでしたね。

アトピー性皮膚炎がありまして肌が弱いのです。しかも野郎なのでヒゲ剃りを日々欠かすことができません。しかし、ヒゲというのはある程度伸ばして剃ったほうが肌へのダメージは少ないのです。これはとても大事なことなのです。ゆえに家から一歩も出ない日は髭を剃らないでおくことにしています。病気療養中ならなおさらに。
今回は過去最長、5日間伸ばしました。初めてゴリラに遺伝子の繋がりを感じました。ウホりみがありましたよね、やはり。

で、剃ったんですついに。おかげさまで剃り跡はしっかりツルツルです。とっても気分がよござんす。
ただひとつ問題があって、ヒゲが伸びまくったことで元のもみあげの位置がよくわからないという事態に陥りまして……
よく見たら残ったもみあげに斜めの切れ込みが見えるんですよ。あれ?元位置ここじゃね?的な。確かにいま残ってるもみあげ死ぬほど変だぞって思ったし、つけもみあげ貼り付けてるみたいで。
で、おそるおそる、剃刀の幅と耳に気をつけながらがんばって切れ込み的ラインから剃り落としました。人間利き目ってのがあるそうで、右のもみあげはわりとよく見て剃れましたが、左のもみあげは不思議と左目がまったく視認しなくて大変でした。ちなみに利き目はトイレットペーパーの芯を覗いてみるとわかるんですが、そのとき無意識に使ってるほうの目だそうです。


ほんとにねえ、大変だった。インフル。もみあげの調整が。あと一応寒気とか食欲不振とかも。
タミフル飲んで寝るのが一番回復早いんですけど、もみあげだけはタミフル効きませんからね。リレンザもダメです。普段からもみあげのラインはちゃんと覚えておこうと思いました。

60 ・・・・・・・・・の曲に別詞を書いてみたので解説

定期公演で・ちゃんたちが持ち曲に別歌詞を書く企画。便乗して2曲ほど書いてnoteに公開している。
動機はふたつある。「曲に言葉を乗せる」という楽曲との向き合い方をメンバーと同様のテーマで行い経験をシェアすることで内側からドッツを感じてみようとしていること、そして中二病が十余年治らず恒常的に詩作を続けてきた結果、ライフワークに近い趣味となり、ゆえに恰好の二次創作の機会となったからである。
考察の論文を書くことも、イラストを認めることも、楽器をもって再現や再解釈に臨むことも自分にはできないが、これなら自分なりにより深くドッツの創作へのコンタクトが取れる、そんな気がしている。

ここでは拙筆ながら書かせて頂いた別詞について解説や語りをしてみたいと思う。いささか野暮かもしれないが、、、

「マフラー」

https://note.mu/blu_01d/n/nfd2db5e3c670

「サテライト」別詞。12/21に書いた。
冒頭の「[H O L Y N I G H T]」がまずあってそこからそのまま書きはじめたもの。この表記自体はクリスマスの街の電飾看板をイメージしていて、まんま視覚的な風景として設置だけしている。歌になればモノローグ化する。以降はなるべくクリスマスソング的なワードを使わないようにしている。

高校生~大学生くらいの女の子をイメージしていて、黒髪を後ろで結んで紺のピーコートに赤いマフラーのイメージがあった。男女問わず友達もそれなりにいて、部活でスポーツをやっているような、世間で総合的にはリア充に分類されるごくごく普通の女の子が今年は一人でクリスマスを過ごすという、そんな設定が自分の中にある。普段は細かく登場人物を設定しないけど、なぜかこれを書くときは自然とイメージができていってた。

作詞するにあたり、実のところ歌詞をちゃんと読んだことないまま挑戦していて、「巨大怪獣」が出てきたのはオマージュではなく偶然。*1 「怪獣」って・ちゃんたちが歌ったらかわいい言葉だな、って思って使いたくなって入れてみた。この部分には別の一節が既に書かれていたけど「怪獣」入れたさのあまりまるごと差し替え。削除したのは「そろそろもう来年のことも考えなくちゃな とはいえど赤白緑 立ち止まってみる」みたいな感じだった気がする。
製作側の立ち上げてる・ちゃんたちの愛らしさ・可愛らしさのイメージと自分の中のイメージがしっかり噛み合っているような感覚があったり。

シューゲイザーサウンドとこのメロディーラインとBPMから「つよがり」を乗せたくなった。なのでこんな歌詞。1番のやたら詩的な言い回し*2から解けてセンチになっていく先で、1番の最後に出てきた「夜はやさしい~甘えてみてもわるくはないよね」はラストで使い回されるにあたりこっちではマフラー的な役割を持ったな、と思ったのでタイトルは「マフラー」。最後の最後であのフレーズを使い回したのは、その先まで書くのはこの曲の主人公に対して野暮だなって思ったからです。

「Nightshaker」

https://note.mu/blu_01d/n/n44606687b859

「きみにおちるよる」別詞。12/26~12/28で書いた。愛すべき赤の似合う推し・ちゃんの課題曲でもある。

タイトルはEarthshaker(=世界を揺るがすもの、重大なもの)から捩ったもので、「Starshaker」にするか迷った。*3
捩ったと言えば雨に関する言葉を捩ったフレーズも入ってる。(死の月*4とか)
星の軌跡写真を雨と重ねて強風と雨からはじまるイメージだったり雪解けや夜明けのイメージだったり地球の自転に取り残されて夜にうずくまってるところから走って朝に行くイメージだったりいろいろ混在してる感じ。

出発点にしたのはシェイクスピア悲劇「マクベス」の「one of woman borne」というフレーズ。劇中で魔女の予言の通り王になったマクベスは、同じく魔女から予言された「女から生まれた者(=one of woman borne)には負けない」いう言葉を信じる。これすなわちすべての人間を意味する言葉で、似たような言葉が聖書にもあり、ゆえにマクベスは自身の不敗を確信していた。*5
一方で 「女の股から生まれた者には負けない」という訳もあり、これ実は「borne(bornの古い表現)」には「自然に生まれた」というニュアンスが含まれ、それをうまいこと筋書きに合わせて訳そうとした結果のひとつだったりする。
マクベスと対峙したマクダフ*6はこれに対し「自分は帝王切開により生まれた(=自然には生まれてない)」と打ち明ける。つまり絶対と思われた(ないし勝手に思い込んでいた)予言を打ち破る存在で、かくして虚ろな確信を折られたマクベスは「運命は自ら切り拓く」と立ち向かうも討ち取られてしまう。

という話のこれは二次創作的にもなっていて、なにがしかの傷からより深い孤独に自分を追い込んできた主人公が「(絶望的な意味で)絶対と信じてたもの」を打ち破ってくれる存在に出逢い、自ら道を切り拓いていくようなストーリーにした。薄い本みたいなねじり方だなぁ。メンバーへの共通テーマが「恋」なので「恋の力で生まれ変わる」感じの話っぽく書いてるつもり。「マフラー」の主人公とは真逆の非リアの更生物語みたいな感じかもしれない。

サウンド全体にナイトフライトと星のイメージが強くあったので、原曲と使ってるモチーフは近いかもしれない。曲だけで世界観ができているから難しかったけれども言葉選びにそこまで不自由はしなかった。

*1:原曲の歌詞には「笑顔の怪獣」というフレーズが登場する。が、意識せずに書き上げた。

*2:ちなみに自分の中で「雪と言わずに雪を表現しようゲーム」が開催されていた。

*3:ぶっちゃけどちらでもいい。というのも話の地点を夜と捉えるか地球を含む星と捉えるかの違いで、そこは視点の違いだけで起こってることに違いはない。

*4:篠衝く雨から。

*5:マクベスは王になったものの自身の保身のために不安なほうの予言の種を摘もうとやたらと暗殺をしかけたり悪政を敷いたりして敵がけっこういた。

*6:マクベスに妻と幼い子供を殺された人。

59 音楽はスピーカーで聴くのがいいよな

期間限定フリーダウンロードという畏れ多いクリスマスプレゼントを投げ放った・・・・・・・・・、1stフルアルバムとなる「 」は音楽の聴き方の襟を正してくれるアルバムでもあった。

ライブアイドルシーンにおいて重要なのは音圧だった。
ライブにおいてCD音源を使い、かつ「沸ける」というポイントに着目すると、ライブハウスで鳴らしたときに音圧を稼げるミックス・マスタリングが暗に求められているのが地下アイドルシーンのここ数年かなと思う。J-POPにまで裾野を広げれば、95年頃に録音機材の技術革新があったとかで、そのあたりを境にあらゆるアーティストのCDの音量が著しく上がっている。ラジオ・有線でより人の耳に残るサウンドメイキングが以前にも増して求められるようになり、音圧を求めていく傾向は年々加速している。

この冬に届けられた音源の中でとかくこの音圧という点において印象的だったのが、B'zの20枚目となるオリジナルアルバム「DINOSAUR」、そして・・・・・・・・・の「 」だった。

「DINOSAUR」はB'z史上屈指の分厚いサウンドで録音されたアルバム。ディープ・パープルのようなクラシック・ハードロックを意識したとのことで*1、特徴としては空間に対するギターサウンドのレンジが非常に広い。重厚なアンビエンスが心地よく、今までで一番ハードな音作りのアルバムなのに聴き疲れせずすごく聴きやすいという一見両立しなさそうな質感を見事に実現させている。来年デビュー30周年を迎えるB'zだが、「DINOSAUR」で魅せた音作りはまさに熟練の極みといったところだ。

一方、再生環境によって聴こえは異なるが一部の楽曲にクリッピング・ノイズ*2が散見される。
このノイズ問題については様々な報告がなされていて、おおむねスピーカーやカーステレオで鳴らした場合には気にならないとする意見が多い。
ちょっと思い出したのが、T.M.REVOLUTION西川貴教の話。

西川 極端な話を言うと…音楽はやっぱりヘッドフォンじゃなくスピーカーで鳴らして聴いて欲しい気もするんだよね。我々制作者側が意図して作った音というか、スタジオでアレコレ言いながら作っている音って、やっぱりある程度は大音量で鳴らして聴くことを想定して作ってたりするから。

これは音そのものの話にもなるんだけど、やっぱり音っていうのは鳴らされた瞬間に、その場の空間が振動して伝わってくるわけで。普段あまり意識することってないけど、音が空気とか部屋の障害物とか、聴いている場所の広さとか形状とか、そういういろんな要素が混ざり合って音として認識するというかね。それによって音楽を感じる印象が変わってきたりするからね。


――その点でいうとヘッドフォンは…


西川 耳の中で直接音を鳴らすわけだから、空気の震えを感じることができないんだよね。もちろんそれはそれで楽しみ方としてありなわけだけど…スピーカーから鳴った音とは厳密には響き方が違うというか。

出典:【音楽好きを自称するのに音質にこだわらないのはNG!?~中編~】ウラノミ!! ブロマガ 第189発目

リスニングの想定はアーティストにもよるだろうが、作り手は様々な再生環境でテストをすることが多いという。スタジオのスピーカー、多種多様のヘッドフォンやイヤホン、THE YELLOW MONKEYの吉井和哉によるとiPhoneのスピーカーで鳴らしたときの音も実は大事なのだという。良い音はそういうので聴いても良い音だとのことだ。

これらの事柄は、本来、音楽はスピーカーで聴くべきものなんじゃないか、という意識が強くなるきっかけになった。先日の27時間テレビ内で放送された阿久悠の半生を描いたドラマでも、CDウォークマンが市民権を得はじめた時期に阿久悠が「音楽の聴き方が変わった」と指摘する場面があった。音楽は本来スピーカーを通し、不特定多数で聴くようなものだったのだ。
中高年のベテランミュージシャン達の少年時代、兄弟が聴いているレコードを盗み聴きしてロックに目覚めたという話をインタビューなどでたびたび耳にする。
CDウォークマンの登場以降、音楽は個人で楽しむ時代へと突入し、mp3プレーヤーやiPod、最近ではスマートフォンの高音質化も進み、音楽が個人消費の時代になって久しい印象を受ける。空間を伝う音が聴かれる機会は減ったのかもしれない。



・・・・・・・・・はというと、その楽曲の多くをシューゲイザーが占める。
シューゲイザーとはなんぞやというと、ほぼほぼ触れてきていないジャンルなので実のところさっぱりなのだが()、まぁかったるい専門的な言葉を排して言うとしたら「滝のようなギターサウンドの音楽」だろう。

個人的に人生五本の指に入るCDとして、数年前に廃盤になったダイソー*3のCD「瀑布のとどろき」がある。華厳の滝をはじめとする、日本が誇る名瀑布の水流の音をありのまま録音したネイチャー・サウンドアルバムであり、他に類を見ないヒーリング・ノイズアルバムだ。
滝はやばい。マイナスイオンがすさまじい。大学の時分に行った新潟旅行の際、少し山を登って小さな滝を見に行ったが、荘厳な景観と浴びるような水流の轟音に立ち尽くしてしまった。浄化されるような気持ちよさがあった。自分にとってノイズだシューゲイズだっていうのはこの経験から来る親和であり、ゆえに音粒の尖っていないアンビエンスにこだわった太いサウンドを好む。

・・・・・・・・・を初めてライブで観たとき、なんて気持ちのよい音楽だろうと思った。浴びれる。彼女らの楽曲の初リスニングがライブハウスの轟音だったことはラッキーだったかもしれない。
アルバム自体はヘッドフォンで聴くと中高音域の音圧が強めでノイジーな印象も受けるが、「サテライト」なんかはドラム(主にハイハット)が少しうるさいくらいでギターの音作りはとてもいい。

「文学少女」は先行シングルのひとつ「両B面レコード」からの収録だが、フリーダウンロードの音源をヘッドフォンで聴くといまひとつ物足りない。音質が良すぎる。
「両B面レコード」はその名の通りシングルレコード(ドーナツ盤)で、「文学少女」はレコードの質感でのリスニングで完成されていた。くぐもったミニマムなアンビエンスとときおり微かに乗るレコード特有のノイズがこの楽曲にぴったりだった。部屋の片隅であのシングル盤をかけているととても癒される。

逆に「ソーダフロート気分」なんかはCDで聴くといい気分な気がする質感である。90'sの香りがすごくする。これは完全にイメージだが90'sといえば音楽とドライブである。イージ㋴ー★ライダーである。これは完全にイメージである。プライベートがすぎるこの感覚。この時代は親の運転する車でいろんな音楽を聴いていたのである。ともすればたぶんカーステレオがかなり相性が良いのではないだろうか。といっても今の車はかなりダイナミックなサウンドシステムが搭載されているから古い車種でないと時代性ごとバッチリはめるのは難しいかもしれないが。今の車、後部座席にもスピーカーあるからな。

曲によって相応しい再生環境は違ってくる気がするが、なんにせよ・・・・・・・・・の「 」もやはりスピーカーで聴くべき音楽なんじゃないかと思う。空気を震わせて伝わってくるサウンドにこそ''エモ''がある。肉体に浴びせることで得られる''癒し''がある。・・・・・・・・・の本質は''癒し''にあると思っている。ライブで聴いたときの気持ちよさは高まりと共に癒しをくれるのだ。あとメンバーの可愛らしさはとにかく癒し度が高い。

しかしなーライブ。茫然と音を受け止め続けたいしパフォーマンスをじっくり観たいし写真は撮りたいし沸いても楽しいしどうしたらいいんだこの現場。

*1:ちなみにファンの間ではどちらかと言えばホワイト・スネイクっぽいとする意見が見られる。

*2:音割れしたときのチリチリというやつ。

*3:一応言っておくがマイナーな海外のバンド名ではなく、フツーに100円ショップ最大手のアレである。

58 猫2

うちには猫2匹おりまして。

どちらも子猫の頃に拾われてきたのだけど、上の子がオスで下の子がメス。どちらももう13,4歳とかになります。

下の子は野良上がりで警戒心がなかなか抜けなくて、大人しく抱かれてなかったりあんまりリラックスした表情見せなかったり、あととにかく野心?というか押しが強い。

上の子は目が開かない頃からうちにいます。親に教わるべきことを教わらなかったので噛む力の加減ができない子です。甘噛みのつもりのときでもめっちゃ痛いです。子猫の頃は我慢できたし噛ませてあげられてたけど、大きくなってからはできなくなりました。皮膚に穴あきます。

餌を出してくれと先にせがんでくるのは上の子です。でも出してあげると下の子が割り込んできてすぐ諦めてしまいます。歳上のオスなのに弱いのです。。
二匹用の皿に出しても、上の子が食べてるのをわざわざ邪魔して下の子が奪い取ります。性格悪いんです下の子。そういうときは猫たちを持ち上げてそれぞれの皿の前に配置すると仲良くいっしょに食べはじめます。不思議な光景です。なぜ邪魔をせずにはいられないのだろう下の子は。
そんなことがいつもあるので最近は上の子に食べさせるまで下の子を人間が邪魔するという事態が発生してますが、これなんかあんまり上手くいってない社会だなって思ってしまいます。

親に教わるべきことを教わらないばかりに力の使い方を間違えて避けられたり理解できずに怒られたりして、餌を横取りされても黙って諦めてしまう姿を見て、なんかこいつ自分に似てるとこあるなってこの頃は思うのです。
違うのは外に出れるか出れないか。この子は世界を変えられないまま年老いていってしまうのかなと思うともう少ししてあげられることあるんじゃないかなとか思うのです。でもそれってなんだろう。自分のことですらよくわかってないのに。

57 膨張

noteに載せようとした詩ですがなんか特定の人のことを想って書くと恥ずかしすぎてだめですねこっちに載せますね

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あなたが好きな歌 僕にも響くから
教えてくれたでしょ だから思い出すんだ
いま 一人で何度でもステージを観に行くけど
あなたを片隅で思い出してる いつも

冬なら筒のような白い帽子だろう
目と口の形 忘れもしないだろう

揺らせる糸は手元にあるし
一筆投げたりできるけど
心遠く離れた気がしてなんかこわいんだ
見えないキスで信じ合えた瞬間は
嘘じゃなかったはずなのに

頭がわるすぎて地獄に陥っても
あなたの声が呼び戻してくれた
こんな僕を呼び戻してくれる無垢な声があった
気遣いすぎた愛の言葉は胃に溶けた
でも魂の絆はあると思ってたりする

祭のように華やぐアリーナをなんとなく見渡す
駅から何列か後ろの席まで なにげなく
何万人の中から出会えるなんて思ってないよ
偶然に頼るしかない 情けないのは自分だけ

大好きなのになぜだろう
気恥ずかしかった、あの日は
すぐそばにいたあなたに声もかけず
知らない街を歩いてた

願いは 果てに 続くように
傷は いつか 癒えるように
靄のような罪はいつか空に消えるだろうか

雲が流れ去ってく 4歳の公園を想った
いつまでも目で追ってた
知らないおじいちゃんに
「目が悪くなるぞ」って言われた

古い銭湯の煙突が吐き出す
黒い煙は青空に溶けてゆく

時が巡りいつかまた縁があればなんて
弱者の美談、浅ましいよね わかる
心なら鳩尾喰らってもいいんじゃないかって
強い決意? それとも乗ったときのノリなのか

心配ない そう心配ないさ
魂がそっといつか出逢うよ
ひとひらの罪を嘲笑ってくれるよ

甘えた詩を書いて 宇宙はまた膨らむ

何年も前は想像もしなかった世界に生きてる
巡り合わせと縁を感じるような再会もした
あなたは意志が強い人だからどうだろう
やむことのない敬愛は今でも胸にあります

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もいっこさーまた違う人のこと想って書いたやつもあるんだけどあまりにも恥ずかしくてどこにも載せられません
深い敬愛を抱ける人がいるというのはそれだけで幸せなことですが、うまく伝えられないです辛いなぁ