62 『秘密の花園』

RooTS Vol.5「秘密の花園
作・唐十郎
演出・福原充則


他人のススメで観たり聴いたりとかそこまでしない人なのですが、話を聞いてからなんだか無性に気になってチケットを買って観てきました。
唐十郎作品を観るのは初めてです。福原充則演出は7年ほど前に「墓場、女子高生」を観たっきりです。すさまじくフラットな素人観劇でございますが(これは自分が常にしていたいものですけれども*1 )、観終わってすぐの感想を書き殴ります。
ちなみにすぐって言いながらも寝る前とかに追記補記を繰り返していました。大人ってずるいですね。平面の裏側って見えない!





純粋とはもっともおそろしくおぞましく奇跡がおきたように狂った清潔であるようです。でもたとえば「常」といわれるものら(常人とか常態とかですよ)が店に並ぶ宝石だとしたら原石ってもっとその表面は八百万の冒険小説をアトランダムにリミックスしたやつみたいになってるはずじゃないですか。整ったかたちの方がよっぽど異常かもな、とか。「純粋とはねじれた形のことだなァ」とか言うこともできるんでしょうけど、それはうそつきみたいでなんかいやです。それをうそだと知らないうそつきみたいで。

ボロアパートの一間でなんだかSASUKEをブレイクなしで一気に突き進むような言葉尻を掴んでは飛躍させまくるさながら猿とウォンバットとハイエナを掛け合わせた魔物が空に浮かぶ島に鬱蒼と生い茂る異常成長したジャングルの巨木群の合間をデタラメに飛び回りながらも何気にちゃんとエサは狩っているような会話が延々と続いていて、もう「ボロアパートに白熱灯か蛍光灯以外の灯り」だけですべてが滑稽になるというのにそんな調子も乗せるので挿入的にでもなくあっさりと超現実がキマっている風景。そんなものをやわらかにケラケラ可笑しいなァとぬる~く観ていたら、この世に穴をあけたような刹那が突然来てぐわっと汗をかきました。もってかれたってのはこういう感覚のときに使う言葉です。辞書に載せてくれ。
空想も現実も仮想世界も瞬きもせず見ていたのにセル画の2枚目に突然ひび割れた大穴を書き足すような慇懃無礼な崩壊と空洞、闇な宇宙をぽっと置いてしまったような昔のアニメの作りの中にぶちこめる瞬光的ワンカット。なんだこいつ的な。ポカンとまぁしてやられたわ的な。もちろん演劇だから積んだ先を観に来てるところがあるのですけど、あそこまでエクストリームワンダーランドしてたものが心臓を直で殴るタイプの共感可能な現実の展開に一気に収束したもんで、たぶんあの瞬間に1kgほど痩せてる。


休憩が明けて後半、なにやら差し戻された空気の先で、結果としてそこにはこの世のぜんぶがあった。パンフレットで語られていたことを心と脳の深いとこのすごく妙な形をした臓器みたいな芯的なところでわかってしまった。これはあくまで「自分には自分のワカリがある」という前提なのでワタクシの世界の話でございって感じなので、黙って聞いてください。人の感想ってのはそういうもんですよね。誰しもさ。



隠しているぜんぶ隠している。みんな隠している。俺も隠している。最期までわからない。狂ったように見えるただの純粋さんが意志と理性を以てぜんぶを終わらせた最期になるまでわからない。あとたぶんふつーという混沌の最期ならそれはわからない。


まっさらなグレーのスーツは自分の脳とか心臓をはじめとした広範囲に除夜の鐘でも貫くのかってくらい太い釘でぶっ刺された日に寝て翌朝起きてあたりまえに来る次の日の違和感を感じない違和感すら感じない寝起きとりあえず口ゆすいで水飲んで仕事行かなきゃ飯食って着替えてああそろそろ遅刻しそうだやっべえゴミ捨てしてる暇ねぇわ来週になっちゃうつらっみたいな朝と同じだった。

思えば自分にも異世界のような時間を過ごしたことだってあるのに、あっという間にただの思い出じゃないか。劇中ではあんなにわけのわからない魔界みたいなことがあったのに(あれはでも万象の皮膚剥いだ肉とか臓物ってこういうことじゃないか)あっという間にただの思い出じゃないか。わけわかんねえがあっという間にわかってしまったじゃないか。その瞬間瞬間については超現実とか言ってたくせにつらつら談笑の中で語れてしまう思い出にすっかりなってしまってるじゃんと思ったら、あっという間にと金が歩にひっくり返るがごとく先刻の魔界が浮世に成り下がってきた。*2

なんやかんやしといて結局ほうほうラストはロマンチックに向けたりあざといことする感じの感じになるかと人気のない駅の高架と曇り空とぬるい風も吹かないライトグレーの感傷風なノリの先、最後の最後の最後の最後で突然来るあの瞬間は人生で何度か起こるあれじゃないか。油断したところでなにか仕掛けてくるだろうとは思っていたけどすんげえ重い一撃もらいました。音だけで。


ふつーの暮らし。よくあるイッパンテキとかいうやつ。なじむべき社会。ないしはレゲエでいうところのバビロン。しくみのなかで生きる方法ちゃんと知ってるみなさん。家庭と地域と義務教育と高等教育と社会勉強をちゃんとあるいたみなさん。あるけたみなさん。すっかりねじ曲げられてしまってんだね。
ありのままの自分とかさー幸せとか、あー自分には自分のためのえげつない4Dダンジョンのような道があるもんなんだね。無理です。無理です。いまさらです。だれもがみんなかなしくなるわけじゃないけれど、何重にも何重にも肉で皮膚で服で布団で鎧で核シェルターで隠し切れた人がそれなりにふつーと言われる幸せを手にしてまぁそこそこ幸せですかねとか言うし多少なり闇を抱えてでもやっぱり肉の下のことには気付くことすらないんだなそれがいいかどうか自分は知らない。
自分に対して正直なものでまったくうまく生きられないから社会のなかではゴミだなぁと思うしでも一方で社会除いたらまぁそこそこじゃねとか思う自分ですけど(生物の本能とかで考えると非道い不義理を働いてきた自分ではありますが)、いろんな層をめくり続けてそれでも自分が素直に喜べる世界はいちばんギラギラした歳のロックスター(それもメロディーの美しさなんかより速弾きやノイジーな奏法をキチガイのように好むタイプ)のアドリブ全開の10分に及ぶギターソロのように異常に縦横無尽で重力の概念すら無視したギャラクティックで炸裂的な一本道しかないのだなって思います。

小学生のころ、指のつけ根のあたりにかさぶたができました。
ポリポリ掻いて、そのうちかさぶたを剥きはじめて、何日も剥き続けて、できかけの体液の凝固すらも取り除いて、いつしかヤバいなって思うところまでいったとき、白いものが見えました。軟骨ってやつでしょうか。さすがに現代社会の文明下に生きるこどもとしてというか人間(社会的動物)としてヤバいなと思ってすぐにばんそうこうを貼りました。
自分はずっと世の中に対してそういうことをしているのかもしれません。観るもの、触れるもの。フィルターをはずした最後の最後がみたい。だいたい同じものなんじゃないか。世の中のことってほんのいくつかが無量大数のバリエーションで虚飾されてるだけじゃないかって。理由がなくなるラインとか。

だからそんなことを「秘密の花園」から嗅ぎ取ったりするのかもしれません。めくってしまったなぁ、的な。めくられてしまったぞ、的な。全体像的には肉の下の細胞やきもちを見るために服を脱がす、そのために部屋で二人きりになる、そのために口説く、そのためにetc.etc......みたいな。これ別にそんな猟奇的なサイコサスペンスの話じゃないんだけど。あのー構造的なところで。

なにげなく死んでいた日々の風景がうぞうぞと動きだしそうで週明けの仕事に行くのがちょっとこわいです。

*1:知識ある立場から比較や考察・論評をして、ネイキッドな感受を阻害されるのがいやなのです。それはしばしば「作品の本質」を見逃すことになるからなのです。なにか作品に触れるにあたっては(それがパロディなどを楽しむものでなければ)自分という人間の中に築き上げた文化すらフィルターとなって心の眼を阻み、邪魔であることのほうが多いように感じます。

*2:ちなみに実際の将棋ではと金は歩に成れない(戻れない)そうです。