46 夏の日のオマージュ②

二足歩行のワニに声をかけられたが彼は無視した。

彼は焦り歩を進めていた。コンビニや酒屋に寄ることはできたが、実のところあまりにも人も車も通らないド田舎で、一向にタクシーを捕まえられない。歩いてないでさっさとタクシー拾おうと思い立ったのは7時間前にたまたまタクシーとすれ違った時で(そのときは乗客がいた)、しかしそれ以来自転車の1台ともすれ違わない。奇妙なうえに困った話だ。

頼まれている曲の納期が迫っていた。先日送ったデモがほぼそのまま通ったので、彼の作業スケジュール的にはこの三日の間にリズム録りを済ませて、旧知の仲であるスタジオミュージシャンの豊臣にギターとベースを入れてもらい、仕事が遅いことに定評のある作詞家の板挟氏からのレスポンスを悠々と待つつもりであった。
幸い会社はまだお盆休みだったため勤怠への影響はなかったが、休み明けまで残すところ二日である。これがまた彼の焦りを助長した。

手元には財布しかない。クレジットカードと毛ほどの現金、あとは人気アイドルと自分が写ったポラロイド写真が入っているだけ。スマホはおろか糸電話レベルの通信環境すら持ち合わせておらず、テレパシーを試みる暇を惜しんでさっさと帰らなければならなかった。

脚が棒のようになるほどの徒歩の旅。混凝土の砂漠を延々と歩き続ける。幸い案内標識により自宅方面の方角は確認できた。歩いていればいつかは見慣れた道に出る。あるだけマシレベルの希望だがやはりあるに越したことはない。
孤独と疲労に打ちのめされそうになると、彼は財布の中のポラロイドを取り出し、自分の隣に写ったどこか消費税が高そうな西の国を思わせる顔つきの少女の笑顔を眺めては己を奮い立たせ、再び知らない道路をただただ歩いた。

俗にチェキと呼ばれるこの小さなポラロイドは、決して関係者の特権を利用して撮ったものではない。1年ほど前になるが、今なおブレイク中の人気アイドルグループ「メンチ!!ソース!!マヨネーズ!!そして限界突破!!!! Another Faces」の2ndシングル「錬金術は庭でやれってあなた昨日も言われてたよね?」全7種を買い揃え、なおかつ抽選で当たったファンだけが参加できるという貴重な撮影会に赴き撮ったものだ。さらに言えば彼は関係者でもなんでもないし、ついでに言うと推しメンに会えることに緊張して関係者に名刺を渡すことすらも忘れていた。なお推しメンの午後乃緑茶はガチのベジタリアンであり、食の方向性の違いを理由に半年前にグループを卒業している。

いつか彼女のオリジナル曲を書くことが夢だった。今後はもうアイドル活動はしないと言いながらも新たにツイッターのアカウントを開設してくれたことで、完全受け身ではあるが近況を知ることができている。すぐに消されたツイートだが(通知から確認ができた)、彼女がグループを卒業した少しあとに各メンバーのソロ楽曲が発表されたことをすこし気にしているような内容だった。なにより彼は彼女の歌声が好きだったので、いつかなんとかしてみたいと願いながら日々の仕事に打ち込んでいる次第である。

しかしながらこの現状はやばい。インターネットの回線を通さなければ作曲関係の仕事のやりとりが一切できない都合上、一刻も早く帰らないと夢どころか今後の仕事がなくなってしまう可能性すらある。昼間の直射日光で溶けた左脚が夜になっていびつに固められ、なんとか治してみようとはしたが結果として両脚とも右脚になってしまった。歩きづらいし、慣れない構築の人体で生きるのはかなり体力を使う。

なぜタクシーの一台も通らないのか……結論から言えば、この地域を主な拠点として走るタクシー会社のドライバーの7割が溶けてしまったことと、市から外出禁止命令が下されていることがその理由だった。たまたま拾った新聞に目を通してこのことを知った彼は、「そのうちすれ違うであろうタクシーを拾う」という目的を諦めざるを得なくなった。
先刻すれ違ったタクシーは品川ナンバーだったのだろう。品川ナンバーの車は特権階級の所有物だ。あのタクシーの運賃も相場の数倍はするはずだし、乗客も一流のセレブに違いない。車輌も一流で、数万℃のマグマの中にあっても傷一つつかず、乗った者は涼しい顔で昼寝をしていられるという。

数kmに一軒ペースで立ち寄れるコンビニの店員達は、聞けば皆ここ数日は夜間の通勤を余儀なくされているという。日中は太陽光が危険だが、夜になれば日は翳るので日中働く店員は暗いうちに店に来て睡眠を取り、そのまま仕事に臨むのだという。
コンビニ店員が夜行性にされてしまった世界で、果たして無事に家に帰ったところで仕事のパートナー達がまともに生きているかすら怪しくなってきた。そしていくらなんでも両脚が右脚になったままなのはそろそろつらい。救急車でも呼べないものかと思ったが、コンビニでかけさせてもらった119番は何度かけても「回線が混みあっています」の一点張り。土曜朝10時のイープラスのようでだんだん腹が立ってきたので、諦めた彼はソフトクリームを買い店をあとにした。
なお、このソフトクリームは2口なめたところで蒸発してしまう。時間にしてわずか6秒。彼の苛立ちは臨界点を迎えようとしていた。

干からびたコーンを道端に投げ捨て、少し先に目をやると、二足歩行の大型爬虫類がこちらをじっとりと眺めていた。なぜか警官のような服を着たワニがやる気なくそこに立っていた。先刻、無視したワニだった。