31 親は感謝すべきとは限らない

新年明けましておめでとうございます。

前の記事にも書いたのですが、2016年は「終わりとそれに伴うはじまり」が世の中全体に大きな流れとして存在していたような気がします。そしてその潮流はまだちょっとだけ続いているようにも。

自分自身ひとつ終わらせたことがありました。関わっていた人達も次々と辞めています。花の命は短い、というのは健康な土に根を張れる花が少ないからなのかもしれません。

この先は自身のFacebookからの転載です。書いてから不思議と何度も読み返していて、なんだかこの文章を書いたことで新しい区切りをつけて「はじまり」をはじめられるような、そんな気がしました。
なのでこっちにも載せます。

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見ていて気分の良い文章ではないはずなのでこの一文以降スルーするのが吉です。おみくじ。

親に感謝できる家庭、に憧れている。それが世間では当たり前で美徳みたいに言われているけど、そうできる家庭は恵まれていると思う。
きっとうちの母親は自分の大切な人を無神経に傷つけるから(これは確信をもって言える)、そろそろ彼女でもほしいな~とか思うけど「がんばって作ろう!」みたいな気分になるのも憚られる。友達だって会わせたくないし実際大学以降にできた友達とは会わせていないはず。結婚だってゆくゆくはしたいけど母親に関知させずに子育てまでしたい。

世間になんと言われようと母親が死んでも葬式は出すまいと心に決めている。餓鬼道の腐れ鬼畜生めがと言われても構うまい。それほどに長年積まれた憤怒と憂鬱の山は高い。謝罪の一つでもあれば良いのだけど、あの人は謝ることをしない。
絶対にしない。親があまりにも謝らない人だったからか知らないけども、謝ることをいい歳になるまで知らずに生きてしまった。今にして思えば本当に恥ずかしい。

かといって自立できるような経済状況ではないので、さっさと自立して縁を切ってしまうのが自分のためだなと思う。祖母と叔父夫婦だけ関係切らずにいれば困ることはなんにもないし。本当に。

「育ててもらっておいて」なんて言う人もいるかもしれないけど、うちの母親は昔からよく「世話してやってんだからありがたく思え」と自分から
言うし(ぶっちゃけ世界中の親がやってることなんだから威張って言うようなことではない)、小さい頃から「無能」とか「不細工」とか言われながら育ったし、こっちが話しかけると無視するしそのくせ自分が無視されるとキレる、という具合なので家にいると人としての尊厳が損なわれてるような気すらしてくる。「親には感謝しなきゃいけないはずなのにそれができない」と病んだ時期もあったけど、必ずしも感謝しなきゃいけない存在ではないと気付けてから少し楽になった。ダブルバインドからの解放。
家庭に良い思い出がない。ほしい。感謝どころか逆に喰い潰してやるか、みたいな発想にしかならない。それでも親には感謝しなきゃいけないのでしょーか。だとしたら奴隷として生きなきゃだね。

という風に書いてみるとまあ、何に向けて日々がんばったらいいか少し見えてきたかもしれない。
独り善がりの戯言を文字に起こすのは自分にとってのストレス発散でもあるので書いてみてよかったようなそんな気がします。

母親と縁を切るのが今のところ人生の目標です。刺々しい言葉に見えるし不幸なことに思えるかもしれないけど、何が幸せかって人それぞれだよ。本当に。ネガティブを追求して闇に逃げ込むことが生きられる唯一の道という人もいるし、人に理解されずとも自分を見失ってはいけない。心の事情は社会通念では計れない。
自分の場合はこうです。と胸を張って言うことでやっと半歩ほど進める。

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今年は(も)みなさまになんかしら良いことがありますよう。
慌てることがあっても素数を数えて落ち着きましょう。
2017は素数ですからね。