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32 音楽と日向暮らしには常に憧れる

2011年という1年は本当に激動だった。価値観やカルチャーへの関心がかつてないほど大きく動いた年でもあり、心のままに動きふと気付けば失ったもののほうが大きかった年でもあった。

この年がっつり関わった今はなき某劇団との出会いは前の年の秋だった。夏頃にたまたま見かけたぶっ飛んだアートワークのチラシ、Twitterで稽古見学自由!みたいなことを言っていたこともあり、なんだか無性に気になって見学させて頂いた。

劇団の話は今回はほとんどしない。あんまりしたことがない話をする。
このとき劇団のパフォーマンス用の音源を制作しているDJの方に出会った。舞台音響をちょろとやっていると話したら興味を持ってくれたらしい。
あとで聴けばアンビエント系のDJで、パフォーマンスで使われていたアイドルアニソンJ-POPをはじめ様々なカルチャーにある音楽の美味しいところを情報過多にミックスしまくり、さながらハードコアノイズにまとめあげた音源からは想像もつかなかった。
それまでの自分はメジャーのそこそこキャリアのあるバンドばかり聴いていて、アイドルソングやアニソンなんかは目から鱗のものが多かった。高校の同級生にオタクが多かったから入口自体はそんなに狭くなかったけれど。
他にもインディーズのエレクトロなんかは自分が聴いていた音楽からはルーツも含めて完全に逸脱したところから発生した音楽という感じで、とても刺激的だった。

「おすすめの曲教えてよ」と言われて焼いてったCDを聴いて「いいDJになれるよ」と言われた。
DJになろうとはしなかったけれど、なんかそれで気を良くして今でもたまーーーーーーにDJミックスみたいなものを作っている。
その方の影響もあってアンビエント的な
アプローチも入れる癖がある。風の音とかよく入れる。

秋の京都公演に同行したとき、稽古場を他のスタッフに任せサウンドチェックに付き合っていた。
パフォーマンスみんな死ぬ気でやってるから、極力声を張って、それでラップやって、ということを言われ、その場でとりあえず歌えたのが「Feelin' Good」という曲。DA PUMPのデビューシングルで、プロデューサーのm.c.A・Tのカバーでもある。両者のバージョンは副題が違うので端折った。
オーディエンスがいたわけではないものの、人前で大声で歌ったのはカラオケ以外だと初めてだった。

夏頃から「言葉の人」だと言われていた。ラップやポエトリーリーディングを薦められ、オススメ曲のCDも焼いてもらい色々聴いた。Totoなんかはゆるやかに衝撃を受けた。
京都でのサウンドチェックの「Feelin' Good」はとても褒められた。よくよく考えたら自分の人生において自分をあんなに褒めた人はいなかったかもしれない。親に褒められた記憶はないし。

演劇の世界に既にどっぷりだった自分は音楽活動の糸口を探そうともしていなかった。よくわからなかったし、人に頼んでどうこうみたいな度胸はなかった。基本的に孤立している人間だった。望まずなった一匹狼という感じのほうが近いかもしれない。

そもそも大学生になってから軽音と演劇を掛け持ちし、軽音がぐだぐだになりすぎたタイミングで演劇が楽しかったからそっちに行ってしまったという感じ。そりゃ当時は今に比べて(今もだけど)圧倒的に服装はダサかったしブサイクだったしデブだったのにやりたいものがボーカル1本だったのがいけなかったんだと思う。大人しくドラムやってりゃよかった。でもなんかそもそも暗黒の中高時代を送った人間が大学デビューできるわけはないのだから同じだったかもしれない。
演劇のほうも小劇場に流れるようにして2年でサークルを辞めた。決してレベルの高いサークルではなかったこと、先輩がいなくなったこと、より面白いフィールドで動けることが理由だったけれど、何より人との関わりの中で自分のダメさに耐え切れなかった。今でも当時のサークルのみんなには申し訳ないと思っている。

その後、演劇は自身の企画が倒れたことで完全に意気喪失し、一時期は完全に廃人になっていた。
学校にも行かず2回も留年して、何も残らなかった。いや、取ってない100単位だけが残った。少しだけ借金もしていた。
夏休みはバイトに明け暮れて気を紛らわせた。8月は27日間働いた。
その後まさかの出演のオファーを頂き、楽しんでできたのでメンタルはずいぶんと回復した。ただ期待に応えられるような演技はできていなかった。あまりにも未熟であった。

新しいバイトをはじめ、その中でとりあえず卒業をしようと奮起し、なんとか2年で100単位を稼いで大学の卒業には成功した。
しかし特にやりたいこともなく、週5で授業にがっつり出ていたことと母の癌もあり、また就活生を見て気持ち悪くなってしまったため、結局就職をしなかった。そのタイミングでバイト先は改装工事で一旦契約が切れ、次年度以降条件の折り合いが悪いということで退職し現職に移った。アイドルのプロデュースをはじめたのもこの頃である。

準備などなにもなかった。貯金もないし、とにかく最低限の資金すらなかった。投資もなくはじめた活動は厳しく、最初のオリジナル曲にこぎつけるまでに半年以上かかってしまった。
それからさらに半年経って発表したオリジナル曲は自身でプロデュースと作詞を手掛けた。評判も良く、達成感もあった。
実は昔から、それこそ中二病真っ盛りの頃から携帯のメモ帳には思いついた詩のようなものを無尽蔵に書き留めていた。省みることはほとんどないものの、それは知らず知らず言葉のチカラを鍛えていたのかもしれない。作品の発表は些細なことながら数少ない自己実現の達成でもあった。

秋には1年半に渡るプロデューサー業を降りた。やはり経済的・体力的な限界があった。身内の入院も相次ぎ、なにもない自分を投げ打ってまで続けられなかった。理由はこれだけじゃないが、これ以上を話すことはまあ生涯ないだろう。

自分の生活を立て直すことが当面の目標になった。服にお金をかけて身だしなみを整えた。職場の人間関係も大切にするようになった。リラックスして日々を楽しめている実感はある。
それでもやっぱり日陰者が日向に出るのはまだまだ苦しい。とはいえ日向に憧れる身としてはこっちに慣れていかなきゃいけない。
そうやって生きる中で、年齢と共にどうしても考えなきゃいけないことがある。

困ったな、夢がない。

いや嘘だ。本当はあるんだ。

昔から、自分で自分の言葉を歌うことに憧れていた。
歌うのが好きで、言葉を書くのが好きだった。
頭の中のメロディーを形にしたかった。アレンジまで出来上がっているものだってある。
ただ、楽器はできないし楽譜は読めないし、今までも練習はしようとしたけどなんだか続かなかった。怠惰でダメだった。

バンドとかやってみたかった。フツーはやろうと思えば誰でも出来るんだろうけど、学校に友達はほとんどいなかった。誰かとなにかすることが許される人間だと思っていなかった。
そもそも声が良くないし、上手いわけでもないし、細くないし、顔もダメだ。ステージに上がれる人間だという気がしない。バンドマンはカッコよくなくちゃいけない。

気が付けばもう四捨五入すれば30が見えてくる歳になってしまった。ゼロから気軽に夢を追える立場ではなくなっていた。

この先にあるのは仄暗い、なんなのか。
それでもやってみるべきなのか。
やってる場合なのか。仕事探すほうが先じゃないのか。
なにが自分を絡め取っているのかいまひとつ掴めない。
どこかに振り切らないと彼女も作れないだろうな。