91 文章リハビリ回

全然書いてないし。よーしパパ中身がないこと書いちゃうぞー!殺伐牛丼コピペ懐かしい。

 

通勤時間の湘南新宿ラインに横浜から乗って武蔵小杉で降りたことがあるだろうか。おれはある。乗る方面を間違えたんだか前の電車に荷物を丸ごと忘れたかで慌てて降りた。10年近く前の話である。

すし詰め状態という言葉があるが、あの時間帯の湘南新宿ラインの乗車率をすし詰めなんて表現したら寿司職人に張り倒されるに違いない。ふんわりしてないもの。つなぎの入ってないハンバーグのタネくらい密だ。どなたかぜひ、通勤時間の湘南新宿ラインの車内に溶き卵を流し込んでみてほしい。あとはこねてパン粉まぶして焼くだけになるはずだ。カラスも食わんだろうが。

とにかくあの場から途中の誰も降りない武蔵小杉駅で降りるのは至難の業なのだ。文字通り身動きも取れないほどぎっちり人が詰め込まれていて、体制を間違えて乗ったら筋を違えて後遺症が残るかもしれない。体がみっちり固定されてしまう。なんかもうそういうパズルだ。あるいはスーパーで売ってるサイコロステーキ。あれホロっと崩れる食感なのだけど、なんのことはない、精肉担当者が肉の整形をしたときに余りで出たクズ肉を固めて売ってるだけだ。個人的には嫌いじゃない。

ちなみに体調不良で吐きそうなんて人が現れると以外とスペースが空くのだが、現象としては別腹に近いのかもしれない。別腹っていうのは実はデザートを見ると脳が胃袋にアディショナルなスペースを作るというマジモンの話らしい。そう考えると満員電車ってのは食の趣味が非常に悪い。まぁそもそも満員電車自体趣味の悪い概念だよほんと。

そんな電車から抜け出したときの開放感と節々の痛み。上ってゆく通勤人類の波に逆らって悠々とホームを歩くモーセ感。色々と諦めた時間の心地良さ。はーもうなんか知らない街中の地元の人しか行かなさそうなお店でお蕎麦食べたい。ねえ見て海めっちゃ割れてるウケんだけどってJKが写真撮ってる幻覚が見えてきた。嘘です。

嘘といえばこないだゲーセンで「二本足で自立する猫のぬいぐるみ」を600円で取ったんです。マジで自立します。嘘みたいだよね。これは本当です。手のひらに乗せてアイドルと謎が深いチェキを撮りたいな。いややっぱ言うほど撮りたいとは思ってないな。なんだろう、思ったことが自分にとって本当かどうか口に出したあとわかることってありませんか?おれはあります。数時間経ってやっとわかったり何日もわからなかったり焼肉ライクでバラカルビの脂と共にロースターの下に流れ落ちていったりします。

「きゅうり食べたいな」って口に出すんだけど別に食べたくもなくて、でもそういうときおれはちゃんと「やっぱ食べたくないわ」って言うタイプです。でも実際はこんなことすらそもそも言うことがあんまりないです。7割くらい虚構。たまに文章を書こうとすると口からでまかせがホイホイ出ていけないですね。これはその、まぁ、ジャムセッションみたいなもんですよ。アドリブで鳴らしてく感じです。誰とのセッションなんだろうな。あなたとかな?

でも口に出したことが決定稿ですみたいなのってやっぱ思われますよね。実際は思考の過程にすぎなかったりして。真夜中にぶちまけた言葉が寝て起きたら脳内整理されて新しい知見を得たりして。そこでたまに、ああ自分ってこうなんだって気付いたりもします。

最近怖いのはあれですね、村八分。昔からほんと集団に馴染めないのです。こんな性格だからさ。なんか既にある集団に入れないっていうコンプレックス的なものがあって、中学の頃それで辛い想いをした上になんか人間不信になってしまったりして、バはー…みたいな。みたいなってなんだよ。はー…て。

集団に馴染めないと1人で学ぶことが多いわけです。指導者もいなければ教科書もないので、雑多にコラージュされた知識と経験を目の前の出来事と照らし合わせるわけです。するとどうでしょう、「なんだコイツ」って奴の完成です。ウケる。

「なんだコイツ」って思ったらすぐ引っぱたく人いるじゃないですか。アナスタシアばりの平手打ちをかましてくる人。「なんだコイツ」とはなんだコノヤロウですよ。
「なんだコイツ」とはつまり己の文脈から外れた存在を前にしたときに言い放つおセリフなんですが、己の文脈とはなんぞやだ。お前はどこに生きているんだ?村か?街か?海か?洞窟か?山か?沖ノ鳥島か?おれは世界に生きているけどお前はどこに生きているんだ?そう問いたい。だってあんた大手町第三小学校1年2組の倫理観がジャムおじさんのパン工場で通用するわけないでしょ。さわやか3組でだって通用しないよ。ハッチポッチステーションでも無理。

まぁでも自分が生きる場所を守るのって大事ですよ。それはだって肉体も心も生きてなきゃ人生とは言えないからさ、それを守るのは大義ですよ。人類とは須らくそうすべきであると思いますよ。その気になればミニマムな世界でだって生きていけるんです。毎日ごはんを炊くとしても日本人が米に飽きることはあんまりないし、たまに枝豆ごはんとかにしたら美味しくていいんじゃないですかね。枝豆ごはん好きなんですよ。だからごはんの工夫さえすればずっとそこで生きてられるってことはありますよ。

ただねーそれでもおれは外食をしてしまうな!だって例えばあれ、揚げ出し豆腐。揚げ出し豆腐って家で作ろうと思わないよね。あと経済回さなきゃいけないし。寝ます。

90 けちょしほ卒業に宛てて「私へ」の替え歌を書いた話(蛇足)

替詞の中で言いたいことはぜんぶ言ってるんで、この文章はほぼほぼ蛇足です。

が、まぁ書いておきたくて。

 

しちょんの卒業発表後最初のライブ(町田)の翌朝、様々な思いが闇雲に溢れては交錯する中、なにぬねるん?の現場に向かう電車で衝動的に書きはじめたのが「あなたへ」です。

ほぼほぼフルコーラス、30分くらいで一気に書いてひと息ついたところで、書いたはいいけどこれどうしようか、なるべく多くの人と何かをやる種にしたいなと考えたところ、少し前にまつりちゃんのバースデーソングをおもしろ楽しくやっていたゆるヲタ軽音部の存在を思い出し、すぐに連絡を取りました。

企画を持ち込むなり二つ返事でホイホイと企画が進みだし、それからずっと歌詞の完成を目指して言葉を探したり一旦離れてみたり、じっくり育てる日々がはじまりました。

最終的に一旦これで!というところまで仕上がったのが9月も中旬に差し掛かろうという頃。
最後に軽音部メンバーで意見を交わしつつブラッシュアップし、9/11に完成しました。およそ2ヶ月。


今にして思えば、2人の卒業についてはもっとずっと前から勘づいていた節があるように思います。ついにその時が来たか、という感じで。
胸に込み上げる熱いものもありつつ、それでも受け入れ冷静でいられる自分も確実にそこにいました。

 

そんな中でスクロールするタイムラインには、様々な時代に彼女らと出会った人たちの深く熱い想いが怒涛のように流れていきます。
「あなたへ」には、そこで目の当たりにした種々様々な熱気あふるる光景を、なるべく言葉にして載せていきました。

「ゆるめるモ!を終わらせてはいけない」
その使命感は度々本人たちの口から言葉になっていましたし、その強靭な意志についてはファンであれば誰もが知るところだと思います。
ゆるめるモ!と出会い、そのコンセプトに共感し、この国に必要なグループだと感じて応援しはじめた自分もそこに大いに共鳴しています。

ゆるめるモ!にはその10年弱の歴史の中で、現役も含め15人ものメンバーが存在したことになります。(研修生「ぴゅーぴるモ!」も含めると倍近くになります)
キャリアの長いメンバーの卒業が発表される度に「ゆるめるモ!終わった」と何度も言われてきたのを知っています。
続けることを選んでも、その道が決して生易しいものではなかったことも知っています。正直、見ていて辛い時期もあれば、気持ちが離れた時期もありました。

外を見れば、数多のアイドルグループが産声を上げては消えていきました。やむを得ない事情で消えていったグループ、活動に満足して店仕舞いをしたグループ、最初から決めていたゴールまで駆け抜けたグループ、色々あります。
アイドルオタクをやっていれば誰でも多かれ少なかれ理解していることとは思いますが、永遠に続くものなどありません。ましてやライブアイドルの寿命なんて5年にも満たないのです。それゆえにひときわ強く輝くものがある、そういうものだとも思います。

それでも、ゆるめるモ!は終わらずに続いています。

それがどれほど有り難いことか。

ゆるめるモ!というグループは、「救ってあげたい」と言いながら自分たちもそもそもは「救われる側」に立っていた人たちだと思っています。
だからこそ上っ面ではない気持ちを歌えるし、こと「私へ」という曲については、彼女らが自分たちに向けても歌える曲だからこそ、唯一無二のアンセム足りえるのです。

「あなたへ」は8~9年という生半可ではない月日を支え続けてくれた2人の功績を、僭越ながら、このアンセムに準えて出来うる限りの幅と言葉を尽くし称賛する、精一杯の表彰状のようなものです。

これからもゆるめるモ!は続いていくのでしょう。
昨日のZeppでの5人を観てそこは安心して信じられるなと思いました。

初めてゆるめるモ!に出会ったときの6人は、これで全員いなくなります。
それでも新しくメンバーとして加わり、これからを引っ張っていくことになる5人のことは、「ゆるめるモ!」のメンバーとしてとても信頼を置ける、実に頼もしい存在だなと心から思っています。
終わらせずにこれからも続けてくれる立派な後継者だと一ファン目線ながら確信しています。

だからこそ終わったとか言われるの本当に嫌で、いや今も最高だしこれからもそうなるし、って思うんです。見てねーだろお前って。
だからそういう気持ちをぶつけたパートもあります。みんなそう思っててほしいなっていうのもあるし。

2人のやってきたことはなくならないんです。そしてこれからに受け継がれていくんです。
ものの3、4分で終わっちまう歌に救われた瞬間、それは自体ほんの一瞬のできごとに過ぎませんが、そこからその命が何年延びたことか!
わからないですよ。わからないですけどそこでゆるめるモ!に出会ってなかったら生きてなかった人たちがきっといっぱいいます。
人間の魂は、たとえ体が生きていたって死んでしまうことがあるんです。
かつて出会っていまはもうゆるめるモ!に全然興味ない人だって、いまどこかで元気で生きているなら、それはゆるめるモ!とそのメンバーの功績だと言っても過言ではないはずです。

そんな気持ちで書かせていただきました。

オリジナルの歌詞はご存知、小林愛さん。
敬愛する作詞家である愛さんの歌詞で替え歌を作るだなんて(ファン活動としての二次創作的なものであるとはいえ)これほどまでに畏れ多いこともないのですが、愛さんに(そしてもちろん歌い手であるメンバー各位にも)顔向けできないような詞にだけは絶対するまいとこの2ヶ月、持っていた魂がスッカラカンになるまで気合い入れてやらせていただきました。

そして、自分の担当は替え歌の作詞だけですが、制作にあたり「ここにガヤを入れたい」とか「ここはサンプリングにしたい」とか色々わがままを言わせてもらいました。

それまで1度も軽音部に参加したことがなかった身であるにもかかわらず、不躾に持ち込んだ企画を快く受け入れ、そして真摯に取り組んでくださった軽音部のでぃーさんとちゅんさん、そしてありったけ思いの丈を認めたこの替詞を歌ってくださったボーカル参加のみなさま、本当にありがとうございました。

2人の卒業の餞に、そしてこれから進む道を仄かにでも照らす一かけらの勇気になってくれたら言うことはありません。

改めて、しほ、けちょ、卒業おめでとう。
今まで本当にありがとう。お疲れ様でした。

89 B'zのオタクだけど好き嫌いはともかく日本一売れてるバンドだし人生経験として聴いてみたらいいと思うのでおすすめの曲をマニアック方向から挙げてみる

ソロ活動を含むB'zの全楽曲が各種サブスクリプションで解禁されました。3年前からSCENES(30周年エキシビション)でオリジナルアルバムがアナログ化された頃から旧作のリマスター化もしくはサブスク解禁を熱望していたのですが、コロナ禍が馴れ馴れしく世間に居座るようになりはじめた今日この頃、突然の解禁となりました。やったぁぁああああああああ!!!


既に各メディアやいち個人が夥しい数のオススメ曲プレイリストを公開していることだろう。自分もそのひとりです。解禁直後にアイドルオタクのフォロワーしかいないTLを荒らしに荒らしてしまってこれだからオタクは……となっていますがあまり反省はしていない。

最近文章を書いていないし、この機会にせっかくだから何か書こうと思い、それならもうゴリッゴリにマニアックなところを攻めたらいいんじゃないかということで、ゴリッゴリにマニアックな隠れすぎた名曲とか、ゴリッゴリにマニアックな目線とかでなんやかんや掘り下げてみることにしようかなというのが今回の趣旨です。

ちなみに全880曲とはいうものの、シングル収録曲もアルバム収録曲も、元の作品とベストアルバムへの収録分がそのまま網羅されているので重複している楽曲が多々あります。既に別CDに入っているものはアルバムから省くという省エネスタイルも見られるサブスク業界ですが、そこはやはりアルバムを大事にしてきたB'z。過不足なくほぼすべてのアルバムをオリジナルの収録曲通りに聴くことができるのです。

なお、「LOOSE」や「Treasure」などに存在するシークレットトラックは配信対象外となっているので注意。特に「LOOSE」は収録曲表記はないもののトラックとしては分割されて存在する「spirit loose II」というエンディングトラックが配信されていないので、アルバムの全像を正しく捉えるにはCDを聴くしかないです。


それでは全10曲。Spotifyのプレイリストを添えておくので使ってる方はぜひ聴きながらご覧下さい。
https://open.spotify.com/playlist/0UYBVaXwssHwVLxRAM1WP6?si=JRMeLqpaQ66IPfE74fJavA&utm_source=copy-link


「ザ・ルーズ」

8thアルバム「LOOSE」のオープニングを飾る楽曲。
レスポール使いの松本がストラトを激しくジャカジャカ鳴らす痛快なロックナンバーで、歌詞は稲葉の家庭教師アルバイト時代をモチーフ(あくまでモチーフ)にしているユニークなもの。
「Oh Yeah 頭が痛いあの単位も足りない」とかそんなテンションで歌うことじゃなさすぎて楽しい。
「授業はサボりたい」「家賃だって払いたくない」とかハードロックで歌うことじゃなさすぎてめちゃくちゃ楽しい。そしてこれがなによりのB'zらしさだったりする。

なお、ややこしいことにアルバムタイトル「LOOSE」の正式な読みは「ルース」ですが、英語的にも本人たち的にもどちらでもいいらしいです。本人たちはこのへんどっちでもいいタイプの人たち。「B'z」の発音だったなんだっていい。うるさいのはオタクだけ!


「Sweet Lil' Devil」

7thアルバム「The 7th Blues」収録。
間奏でツェッペリンの引用をしているとか現世のリスナーにとってはクソどうでもいいので割愛しますが、とにかく「ハードロックバンドの本気」を感じるエグいグルーヴ感のロックナンバー。
そういう意味では6thアルバム「RUN」収録の「Out Of Control」も負けず劣らずヤバい。

ギターリフが全編に渡ってギラギラしすぎていて容赦ない。ドラムとユニゾンするイントロのリフにアコギがでかく乗ってるのもバカカッコいい。間奏からは故・妹尾隆一郎氏のスリリングなブルースハープも加わり、楽曲のパワーにどんどん引っ張られていく。
ちなみに歌詞は「消えてよ見えないとこまで飛んでいけよ」とか言いながら、結局相手のこと大好きじゃんて感じのオチがつくので結構かわいい。


「GO-GO-GIRLS」

シングル「ALONE」の2nd beat。2nd beatってつまりカップリングのことなので次からはc/wって書くね。coupling withなんて今どき言わねえな…

初期のデジタルポップ×ハードロックの隠れた名曲。2017年の地方都市ツアーで二十数年ぶりに演奏され、全B'zオタクが腰を抜かした。

「GO-GO-GIRLS アタシ綺麗になるの ドキンドキン」という歌詞に🤯となること必死だけどそもそもは坪倉唯子(おどるポンポコリンのインチキおじさんじゃないほう)への提供楽曲で、そのセルフカバー。

この曲のノリを作ってるのはほぼほぼそのエグすぎるギタープレイで、ライブ映像は公開されていないものの、ファンによるギター演奏動画見ると気を抜ける瞬間なさすぎるくらい全編スリリングでやべえ!となる。やたらと出てくるデレデレデレレに加えBメロのキレッキレのカッティング。この時代の松本孝弘は鬼。


「BE THERE」

4thシングル。初のTOP10入りを果たした。
「は?売れたシングルだしPleasureにも入ってるし全然マニアックじゃないやん」とか言うおじさんオタクこそ改めてこの曲をちゃんと聴いてそのヤバさに気付くべき。耳が慣れすぎなんよ。

デビュー初期、明石昌夫が編曲を手掛けた時代の楽曲はイントロがトリッキーで、とにかく再生数秒で耳を掴みにいこうとするハングリーさが垣間見える。
この曲は簡単に言えば曲そのものの短いDJミックスをイントロにぶち込んでおり、これ以上に趣向を凝らしたイントロは後にも先にもなかなか無いであろう。それでいて直後にアルペジオ→パワーコードという結構シンプルな流れで入っていくのもメリハリがあって良い。
リズミカルで踊れてメロディアスでどこか切ない、現世の若年層にもオススメできる流行りのシティポップ感があると思われる。知らんけど。
とりあえず再評価されるべき1曲。


「Splash」

全世界配信ミニアルバム「B'z」収録。2012年版。
シングル「SPLASH!」の英語バージョン。
ベースとなるアレンジは同じながら、英語で歌われるだけで完全に別物になっており、この人ほんとに普段日本語の曲歌ってます??と思うところもあったりなかったりする。あらゆる面で洋楽感が凄まじい1曲。めちゃくちゃカッコいい。
パートによってドラムが打ち込みになったり生になったりするあたりも空間的メリハリがすごくて高まる。

ちなみに大々的な世界配信の初陣を飾るデジタルミニアルバムへの収録ゆえかグローバル準拠の音作りをしていると思われ、明らかに異質なサウンド空間を形成しており、生半可なイヤホンで聴くと糞音質に聴こえるという罠がある。あとカリフォルニアスプラッシュって何?


「NATIVE DANCE」

6thアルバム「RUN」収録。
この曲を聴いた人の9割がインディアンが踊ってる映像を思い浮かべるであろう原住民ダンスロック。
ベストアルバムに入ったことがないのにスタジアムライブにはそれなりに顔を出すサークル掛け持ちしてる出席率低めだけどいなくならない先輩みたいな曲。

\ウンバボ/しか語彙がない人が弾いてそうなダンスは大地から踊れ的ベースラインに、オリエンタルテイストなカッティングリフやシンセブラス、行ったら二度と帰れない島の謎の奇祭を思わせるガヤが入った実に賑やかなナンバー。
ライブでは数万人が祈りを捧げるようなロボットダンスを一斉に披露する。あれはたぶん人生的になにかしらの恩恵があるので機会があれば1度はやっておきたい。縁起物です。ガリガリ君とか当たるかもしれない。

歌詞的には心を裸にして向き合っていこうぜ!という前向きなあなたとの関係頑張りますソング。
「借りてた恋愛小説さっぱりわからなかったよ」
「譲ってくれたビデオ イカしてる いつも見てるよ」
のくだりが人間関係の表現として実に秀逸。


「JOY -Mixture Mix-」

マストアルバム(とは)「B'z The “Mixture”」収録。
オリジナルはシングル「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」のc/w。いわゆる裏ベストである「Mixture」収録にあたりリミックスされた。

バンドマンが手掛ける地下アイドルの可愛い曲みたいな曲。ぜん君の「ぼっちコネクト終」とか雰囲気はあの感じ。ギターもほぼほぼハードじゃない。
リミックスによりリバーヴが程よく抑えられ、曲の空気感を作っているSEがより際立った。(ビー玉をグラスに落とすようなやつ)

自分の知らない相手の一面を想って喜びが溢れてくる……的な歌詞だが、ガチ恋アイドルオタクやってる身としては「わかる」と思うと同時に、結構変態的な性癖してんなと思う。もやもやしたマイナス気味な感情すら相手を想えば(その感情が沸くことそのものが)喜びだというのは。わかるけどね。


「HOT FASHION -流行過多-」

B'zのオタクもライト層もわりとみんな好きだと思われるサイゼでいうとこの辛味チキンみたいな曲。
2007年のシークレットツアーでは空前のレア曲祭の開幕を告げるオタク沸かせの起爆剤となった。

シンセブラスがどこかチャイニーズで、常に怒鳴ってる中華料理人が演奏してそうな暑苦しさと共にガチャガチャした音像が否応なく気持ちをハイにしてくれる。

1990年の楽曲で、タイトルのまんま「流行」について歌っているが、なんだかんだいつの時代にも通ずる流行に対する価値観が歌われており、テーマに対する日常的なフラストレーションに呼応するような熱気を持った曲であるように思われる。辛味チキンみたいって言ったけど味のイメージはエビチリ。


「Survive」

8thアルバム「SURVIVE」より表題曲。表題曲がバラードなのは珍しい。
ハモンドオルガンのような心地好い揺らぎのギターリフ、ドラムの抜けの良い響きのスネアがアコギ&ピアノと絶妙に絡み合い、退廃的ながら瑞々しい美しさの音像を生み出しているB'z屈指の美麗バラード。
ライブではセット崩壊させて廃墟化したステージで歌ったらしく、イメージが合いすぎている。

「まだ嫌だ僕は眠らない」というサビのフレーズは駄々をこねる子供のようだけども言い換えればとても素直で澱みが無い。生きることや剥き出しの意思そのものが持つ色気が楽曲全体に現れている。
ラスサビで「月」「太陽」「星」が揃って出てくるのもオケの美しい空気感と相性抜群で、楽曲の色彩をより鮮やかに引き立てていて素晴らしい。

私事ですが詩を書くときは色味がある言葉を入れるようにしていて、こういう表現にかなり影響を受けているかもしれない。


「Raging River」

11thアルバム「ELEVEN」収録。
静かなピアノとストリングスのイントロからはじまり、旅人の歩みに添えるアコギ1本のAメロから荒れ狂う川のような激しいサビへと長い時間をかけて進んでいくドラマチックなロックバラード。実に7分半という特大ボリューム。別に荒川静香とかイナバウアーとか言いたいわけではない。
もはや語るに及ばず、映画を1本観るつもりで聴いてみてほしい。

和のメロディーの美しさにクラシックと宗教音楽を組み合わせた、時に素朴にも荘厳にもなる、静謐と激情を繰り返す世界観に圧倒されること間違いなし。こういう曲がベストにも入らずしれっと昔のアルバムに収まってるのもまたB'zのヤバさ。
2ちゃんねるのB'zのオタクはだいたいこれが1番好き。5chになってからは知らん。

 


以上、全10曲をセレクトさせていただきました。
最近の曲全然ねえな…

 

他にも
「DEEP KISS」「赤い河」「東京」
「どうしても君を失いたくない」
「きみをつれて」「夜よ明けないで」
「輝く運命はその手の中に」「睡蓮」
「もうはなさない」「Magnolia」
「Da La Da Da」「Queen Of The Night」
「Man Of The Match」「ピルグリム」
……などなど、おすすめしたい曲はアホほどありますが、人間は我慢をしないとね。節操ないのは厚化粧より全然いやだー

 

そんな感じで特にオチもなく終わります。
だれかBD-BOXください🤮 高いよねー買うけど

 

 

88 ゆるめるモ!が新曲で「NEU!」から「NEO!」になるかもしれない話

新曲「緊急避難速報」、新メンバー3人、新衣装が発表され、FFのほとんどがゆるめるモ!関連の自分のTLはかつてないほど色めき立っていて、かつての2chでいえば「祭」、俗な言葉でいえば確変が起きていると感じます。
関係ないですが、認知症が進んでいる祖母がメダルゲームにハマって活き活きしだしたので時々付き合うのですけども、確変しても手元に来るメダルが大したことなくて全然儲からないんですよね。台が渋いだけでしょうか。ゆるめるモ!はめっちゃ楽しいことになると思いますが。


まず新曲「緊急避難速報」がすごかったというお話です。
作詞・作曲・編曲はWiennersの玉屋2060%さん、リミックスを除けば「サプライザー!」に続き2作目の楽曲提供となります。
以降はゆるめるモ!にとって史上最強の人心レスキューソングとなったこの楽曲の魅力について、好き勝手に語っていきます。

まずは聴くんだ。

サイレン音から超速ドラムンベース的なリズムトラックが加わり、景気の良いカウントと共に爽快なイントロに突入。このイントロのコード進行でまず泣けます。なんかどうしようもなく健気じゃないですか?この進行。
終始登場するサイレン音は実際の警報と異なり、聴く人に不安を与えない音色に調整されていますね。レスキューソングとしての優しさ、そもゆるめるモ!というグループ自体が持つ優しさもこういうところにしっかり表現されています。リフの鈍い金属音を孕んだ音色は「サプライザー!」と共通していますが、こちらはゆるめるモ!特有のはみ出し者感によく合っていて最高にクールです。

 

Aメロからいきなり転調していくスタイルですが、各パートのトラックの情感がそのまま歌詞を反映していて、一貫してドラマチックな曲。

歌詞は全体を通して比喩表現をほとんど使わず、ストレートかつシンプルな言葉のみでクリシェに徹していて、真っ直ぐな言葉の強さが一瞬の隙も見せないパワフルかつリリカルなトラックに乗って、聴く人の耳に強烈にメッセージを刻みつけます。

 

往年のファンからすると「ESCAPE」「逃げろ」「地獄」といったワードからミニアルバム「New Escape Underground!」を連想するのではないでしょうか。
同作には王道アイドルポップながら「地獄みたい」という歌い出しが衝撃的な「逃げろ!!」や、攻め続けるゆるめるモ!の最初にして最長の問題作「SWEET ESCAPE」が収録されており、グループのコンセプトの根幹を描いたこの作品を意識したというか真っ向から引用した歌詞ではないかと思います。

New Escape Underground!

New Escape Underground!

 

ゆるめるモ!は一貫して「自分を大事に」と歌い続けており、その出発点は「逃げろ!!」だったわけですが、「緊急避難速報」は原点を新しい言葉で歌い直した楽曲となっており、令和版「逃げろ!!」ともいえる新しい代表曲になるのではないでしょうか。
新生ゆるめるモ!の「これから売れる感」凄まじいビジュアルと盛り上がりもあいまって、「New Escape Underground!」から「New Escape Overground!」に転じたようにも思えます。「NEU!」でも「NEO!」でも意味が変わらないの面白いですね。

 

そういえばゆるめるモ!が「Run away」という表現を使うのは何気に初めてですね。シャネルズかB'zが思い浮かぶ人もいるかもしれませんが(お前はいくつやねん)、一語の「Runaway」は名詞なので微妙に違います。

 

力強く爽快に、さながら無理矢理手を引いて連れ出すように「逃げろ 逃げろ」と歌い続け、ラストサビが終わったかと思いきや間髪入れずに転調して暗雲が晴れたような晴れやかな大サビに突入。


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「苦しいよね 辛いよね 痛いよね よく頑張った」
「悲しいよね 怖いよね ひどいよね もう大丈夫」

ラスサビの余韻もまだ口の中に入ってる内にこんなキラーフレーズで大サビに入られたらもうびっくりしちゃって0.2秒後にはその言葉にボロ泣きですよね。これライブで泣く人めちゃくちゃいるんじゃないですかね。音源の時点で泣く人もめちゃくちゃいますよね。辛く苦しい環境に置かれているすべての人に聴かせてあげたい1曲です。

 

初となったアニメーションMVは低予算感こそありますが、主人公の表情の機微や楽曲のドラマチックな展開を絶妙なタッチで描き出しています。大サビの抜けるような光景の解放感は心洗われますね。
「アニメーション×リリックビデオ」ってついつい最後まで観ちゃいませんか?最近だとAdo「うっせぇわ」やピノキオピー「リアルにぶっとばす」でこれを実感していて、歌詞を含め楽曲を伝えるという一点に強烈に特化した手法ではないかと思います。ニコニコ全盛期にボカロを通らなかった人間なのですが、この道を通って来た方ならなお一層惹き込まれるものがあるのかもしれません。

 

アウトロでは冒頭のサイレン×超速ドラムンベースに再び戻ってくるのが超絶イカしてますが、このシーンに絶望を抜け出した主人公が別の誰かを救いに行く姿が描かれていて、この一連が示唆しているものは言いようもなくエモーショナルです。


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これについてはメンバーも裏主人公的なところがあって、ぴゅーぴるモ!から昇格したメンバーはゆるめるモ!の楽曲に救われて「次は自分たちが」とステージに立っている子達ですし、生え抜き組にも図らずしてそんなドラマに投影されたメンバーがいるので紹介しておきます。


「可愛い」を忌避している部分があったのは、グループ自体がそういうカラーを打ち出していたという側面も大きいと思っています。それに反発するように、あるいは人並みに「可愛い」を追求するメンバーもいたけど、パーソナルな心情もあいまってそこにフタをしていたのが今までの「ゆるめるモ!のしふぉん」というアイドルであったのかも。
この点においては、彼女も「ゆるめるモ!の救済対象と1人」であったと考えていて、今回「可愛い」にちゃんと向き合うことができたのは、言わば思考や固定観念からの「ESCAPE」の成功であり、どこか大サビで描かれる主人公の姿と重なるものがあります。
実際、今回のビジュアルは今までで一番可愛いし、おそらく意識の上で明確にひとつ上のステージに上がれたんじゃないでしょうか。

 

漫画「僕のヒーローアカデミア」では「ヒーロー(=助ける側)が辛い時、誰がヒーローを守ってあげられるだろう」という命題を、息つく間もないストーリーの折に触れて投げかけています。


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(堀越耕平「僕のヒーローアカデミア」より)

今回の一件はおそらくそのさらに先の話、「ヒーローが救われた姿」を我々は見たということになるのかもしれません。彼女が救える人はこれまで以上に増えるだろうし、新たに生まれてくる説得力もあると思うのです。


ビジュアルを語る上で、やはり最大の貢献をしたのは衣装の成田あやのさんでしょう。無国籍巫女的な神秘感とキュートさが一体となっていて今回の衣装は今までで一番可愛いと思います。


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こういった熱い想いで作ってくれているのが嬉しいですし、今後さらに進化するそうなのでなおのこと楽しみですね。強い想いは創作に宿ります。


新生ゆるめるモ!&新曲「緊急避難速報」の初披露は、4/24に横浜ベイホールで行われる「バトルガルガルガル」となるそうです。
なかなかぶちかましたトラックの新曲をライブハウスの鳴りで聴けるのがすごく楽しみですし、7人でのステージがどうなるか、わくわくしますよね。8~6人時代の曲は当時の見栄えを再現した振付になるでしょうし、2016年から長く続いた4人時代の楽曲は新しい形に生まれ変わります。


対バンもすごく熱いですね。二丁魁はおナカマさん(ファンの呼称)含め素晴らしいグループですし、まなみのりさは意外とまだ観たことないのでとても楽しみです。

ちなみに横浜ベイホール、渋谷クアトロのような忌まわしい柱こそありますが、横長で結構どこからでも見えやすい良いライブハウスです。
平時1,100人キャパですが、ゆるめるモ!が主催でここまで大きなハコ取ることなかったので、何か大きく仕掛けてくるような気がしていたんですが、まさか新体制お披露目になるとは、さすがに予想外でしたね。予想外の楽しさこそ一番楽しいことです。

今夜24時には新曲のサブスク解禁もあるので、これからのゆるめるモ!をより一層楽しんでいきたいですね。

末筆ですが、おれの推しが宇宙一可愛いので新アー写を見て幸せになってください。ご覧いただきありがとうございました。


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87 雑談(ぴゅーぴるは「Only You」をやるか否か)

ぶっちゃけ、「id アイドル」と「Only You」をぴゅーぴるで解禁すると、本家への昇格・不昇格で選別される「研修生」という前提から切り離され、今の全メンバーにより構成される''1グループ''としての独立性を(ことさらに)獲得しうることになるような気がしてならない。

結成1周年、8人時代のワンマンライブは「恐るべき子供たちがやってきた!」と題されている。言うまでもなくジャン・コクトーの小説「恐るべき子供たち」をオマージュしたタイトルだが、アイドルポップスだけに留まらない攻めすぎた楽曲たちをトチ狂ったペースでリリースし、ライブハウスだけに留まらない多彩なフィールドでアナーキーなパフォーマンスを繰り広げてきた初期ゆるめるモ!を指すのに、これほど言い得て妙なフレーズはないだろう。事実、2017年4月の「過去ゆるめるモ!」との対バンにもこのフレーズは用いられた。
研修生グループであるぴゅーぴるモ!は、2016年夏に幕を閉じた6人時代までの楽曲に限定してライブ披露を行っている。「過去ゆるめるモ!」を「恐るべき子供たち」と表現する一方で、それとは区別されているのが現在のゆるめるモ!だ。すなわち、ぴゅーぴるモ!は「恐るべき子供たち」として今のところは育てられている、とか、「恐るべき子供たち」の道筋をなぞっている、と言えるのかもしれない。

「恐るべき子供たち」前後の区別の根拠となるのは、やはり「Only You」、そして「id アイドル」ではないだろうか。


「Only You」はその当時、毎週数回レベルで出演していた対バンライブでほぼ毎回披露することで鍛え上げられ、アルバムツアーのファイナルとなる2015年12月のZepp DiverCityワンマンでひとつの完成を見た。この「Only You」をもってゆるめるモ!は、それまでの「恐るべき子供たち」とは別格の存在に昇華したと感じている。

翌2016年に発表された、もね・ちーぼうの卒業は、確実にそれまで動いていた時間を止めてしまうだけのインパクトがあった。「アイドルらしからぬアイドル」の''アイドル性''を確固たるものにしていたのはこの2人の存在で、この6人のバランス感でゆるめるモ!は完成されていたし、リキッドルーム→赤坂ブリッツと順当にワンマンライブの規模を大きくしながらソールドアウトさせ、Zepp DiverCity公演を成功させるという絵に描いたようなステップアップ・ストーリーから、当時は「ポストでんぱ組」と目されるグループのひとつでもあったのだ。
2人の卒業当日に発表された、残る4人での新作「WE ARE A ROCK FESTIVAL」リリースに際してのインタビューからは、文字の上ながらいつまでも抜けきらない満身創痍の雰囲気が感じられた。

「それでも続けていく」という意思表示の元、4人は休む間もなくはじまった全国ツアーを駆け抜ける。歴代最多公演数のツアー、そのファイナルには再び恵比寿リキッドルームを選び、リード作品の楽曲披露もほどほどに、この日の本編ラストに歌い上げたのは「id アイドル」だった。楽曲をもって今後の自らのスタンスを示したわけだが、この楽曲の持つ意味合いが大きく動いたのはまさにこのタイミングだったと思う。2人の卒業に際し、自問自答を繰り返しながらも、続けていく道を選んだ4人の心にその歌詞がフィットしていったのだろう。楽曲の後に歌い手が当事者になった、と言い換えることもできるかもしれない。同年末のリクエストライブでは投票数1位を獲得した。


ぴゅーぴるモ!が6人時代とそれ以降で作品を区分けし披露楽曲を制限をしていることは、昇格の是非を問う「研修生」という前提特性を保持しうる条件には思えない。どちらかというと、初期特有の濃厚さをメンバーに染み込ませる目的+当時の客層へのアプローチという気がしている。出演の多い小規模ライブハウスの空気ともよく合うのだろう。が、それ以外にも少し感じていることがある。

 

現在は(あくまで6人時代までという制約はあるが)メンバーのリクエストで披露楽曲を決めているそうだ。その中で「id アイドル」はOKだが、「Only You」はまだ早いという見解が示されているとのこと。
前述のようなドラマ性を今はまだ持ち得ないぴゅーぴるモ!が「id アイドル」を歌うこと自体は、リリース当時のゆるめるモ!がそうだったように、違和感のないことなのかもしれない。今現在の楽曲そのものが持つヒストリー(ないしレガシー)を考慮せず、よりフラットにその曲の存在を見つめたなら、それは許されることなのかもしれない。絶望の縁に立ってまで続ける覚悟を歌に載せ得たのは、4人で続けていくという決断にオーバーラップさせられたからだろうが、リリース当時のゆるめるモ!が果たしてそこまでの絶望をその胸に秘めていただろうか。平たく言えば、もねちー卒業前後で「面構えが違う」のだ。

 

一方で「Only You」は「恐るべき子供たち」が次のステージに立った、その頂の先にある曲なのだと思う。新たな地平に存在する、いわばラスボスだし、手中に収めたら最終兵器だ。最初からそういうポジションにこいつはそびえ立っていたと思う。
ライブ初披露がとにかく衝撃的で、この曲がはじまるまで動くことのなかったフロアが目に見えて揺らいだのをよく覚えている。対バン相手は神聖かまってちゃんだった。
「Only You」を披露して遜色ない、と判断されるなら、それはもはや「ゆるめるモ!」たりうる実力を示したということなのではないか。ともすれば、ぴゅーぴるモ!でやることはないかもしれないし、やるとすれば別の形での独立を果たすことになるのかもしれない。
ともかく「やりたい!」「やってほしい!」でやっていい曲かというと、それは違う気がする。そういう扱いをするにはあまりにもバケモノじみている曲なのだ。


少し話は逸れるが、なぜもね・ちーぼうは卒業の道を選んだのか。卒業にあたり、続く作品の音楽性に触れ、方向性の相違を示した2人だ。
決め手としてひとつ確実にあるのは、「WE ARE A ROCK FESTIVAL」への舵取りだろう。残ったメンバーですらも疑問を持ちながらこの作品をレコーディングし、ライブで歌い続けてきた。消化するまでにかなり時間がかかったとも後のインタビューで語っている。
それまでのニューウェーブ感、アイドル界ではゆるめるモ!しかやらないようなアナーキーで変態だけどカッコいい曲……ではなく、探せばそのへんに生えまくっている邦楽ロック路線を打ち出したのがこの作品だ。

この話を何かの折に田家さんに聞いたところ、全身全霊で作り上げた「YOU ARE THE WORLD」が思いのほか世間に届かなかった挫折感がこの作品の原点なのだという。音楽マニアからの評価は高かったが、一般リスナー層からの支持が得られず、言ってしまえばメジャーフィールドに迎合する道を選んだということなのだろう。
結果として、その舵取りがすべてだったのだと思う。その先で客層は大きく入れ替わり、傍目にも迷走と映る時期が続き、「ディスコサイケデリカ」で軌道修正の兆しが見え始めるまではどこか重たいムードが漂っていたように思う。自分はこの時期のゆるめるモ!を1度嫌いになっていた。(理由は昔いろいろ書いたので割愛)

田家さんは作った音楽が良くなかったと思ったようなのだが、ファン目線で見ればあれほどまでに素晴らしいアイドル作品があるものかと未だに思っているし、どう考えたって制作・広告費の不足が届かなかった原因だろう、と思わずにはいられない。良いものだからってそうそうバズりはしないのに、シンデレラストーリーを夢見て挫折したように見える。個人的には、今の環境で同じ濃度の作品を作ったらもっと届いていくだろうと考えている。
つまるところ、自分たちが作ってきた音楽を信じられなかったことが、その当時のゆるめるモ!の罪なのだ。仲間を失い、満身創痍で迷走し、グループとしての出世ルートを見失ったのはきっとそのせいだ。届かないなら無理矢理にでも届かせるくらいの気概が求められる獣道を歩んでいたはずなのに。

それでもここまで辞めずに続けてきたことで出逢えた新しい仲間は確かな財産だ。それはぴゅーぴるモ!のメンバーたちも例外なく、現役も元も分け隔てなく。
実だけを取れば、「モイモイ」や「ナイトハイキング」のような曲はぴゅーぴるモ!にも合うだろうし、昇格を見据えての活動なら(なにねるは僅か5ヶ月で新メンバーとして迎えられたわけで)、むしろディスコグラフィの中で多勢を占める第2次4人時代以降の曲をこそやって然るべきなのだろうと思う。
それでももねちー在籍時までの楽曲限定に固執しているのは、あの当時信じられなかった楽曲たちを、もう一度信じてみようとしているからなのかもしれない。無意識かもしれないし、そもそもそんなことは考えていないだろうとも思うが。


ともあれ、現ぴゅーぴるモ!のメンバーは、自分たちが歌っている楽曲を信じてステージに立ち続けていることだろう。9/6以降ライブを観ていないが、SNSから感じ取れるモチベーションの高さはそういうところにも紐づいていると感じられる。

クリスマスになったら観に行けるのだけど、これが結構楽しみだったりする。どうなっているやら。

86 人体と人生のバグ

母親の抗がん剤治療がはじまった。再発。
投薬開始後しばらくは様々な副作用が出るもので、髪が抜けるというのは有名な話だと思う。初めて見ると他人事でもなかなかショッキングなものだけど、3回目なのでさすがに慣れている。が、どんな顔したらいいのかは未だによくわからない。

1週間ほど前から投薬をはじめたのだけど、2日後くらいにはもう「具合が悪いから早退する」と午後休を取っていた。しかし帰り道その足で「外食に行くぞ」と言われ、家にいた自分はそそくさと着替え付き合うことに。祖母の家に寄り、普段は1人でぼーっとしてるだけの祖母まで連れ出していた。
「ラーメンかフライドチキンを食べたい」と言う。しかし母親が明確に食べたいものがあるというのは珍しく、ケンタッキーのフライドチキンを食べたいと言うことはたまにあるものの、ラーメンを食べたいとは滅多に言わないので少し驚いた。

その後は祖母の家でくつろいでいたのだけど、その時はなかなかに元気そうだった。
とはいっても階段の昇り降りが極端に辛くなったらしく、弱々しく痩せている祖母よりもその足取りは重い。

明確に見える足腰の症状がある一方で、早退するほど具合が悪いのに帰りの道すがら外食まで行ってしまう体調と行動力の乖離(普段なら帰ってきてそのまま15,6時間は寝てしまう人)、食べたいものがやけに明確だったり普段食べないものを食べたがる感じ、身体がバグっているという表現がしっくり来る。本人からも同意された。

風邪とかではないので自分自身の経験則から話はできないし、異次元の症状が多いのでなにか言われてもなにもわからん…となってしまう。難しい。とりあえず「要求がやたら具体的」という特徴はあるので、そこはシンプルにレスポンスしていけばいいのだが。今日は「ミントタブレットがほしい」と言われた。

別居している祖母の介護を母がしている。まだ生活に不自由はしていないので、介護というより認知症にならないために積極的に会うようにしているというほうが近い。
ちなみに、祖父は自分が産まれる前に他界、父親は幼少期に離婚し母は再婚せず、祖母と同居の叔父夫婦(子供なし)は休みになると必ず祖母を家に残して出掛けてしまい、自分はといえば一人っ子で配偶者なし、ついでに視力の問題で免許取れず。先々を考えるとなかなか詰んでいる。

治療で身体がバグるのはあくまで投薬開始期の最初期くらいだったと記憶しているので長期間続くものではないけれど、数年先の未来を考えると本当に自分は何もできないまま介護に追われて何もない中年になるのではないか、といった不安がかなり明確なイメージとして脳内をよぎる。よぎるどころかパレード状態。千葉県のアレより鮮やかかもしれない。

家族の健康は大事なのだが、自分自身の未来がそこまで健康じゃなさそうで、何も持っていない自分は誰よりも器用に生きないと詰みを回避できない気がしている。(ここで言う詰みとは、身の回りのことに追われ、結果として孤独死することである)
とはいっても致命的に不器用なので、やり直せるものならどこかからやり直したい気持ちは常にある。

例えばいつからだろう。小学校2年生の頃、国語の授業で、挙手をし問題の答えを黒板に書く、という場面があった。算数だったかもしれない。その時書いたのは「時間」だ。
書いた直後にその場で教室の隅のデスク(教室に先生用のデスクがある学校だった)に呼び出され、「その漢字はまだ習ってないでしょう」と結構キツめに怒られた。
「分」という漢字を当時の自分は既に知っていて、しかしそれはまだ学校の授業では教わっていない漢字だったのである。だからどうした。俺は知ってる。クソ喰らえもいいところだ。

クソ喰らえもいいところだ、と思ってしまった当時の自分の、その根幹から直さないといけない。たぶん。もっとみんなに同調することを良しとする生き方を胎児の頃から身につけなければならなかった。
漢字を知らなければよかった、とかではない。それは知っててよかったが、それを使うことは処世術的には不正解だったということだ。
ちなみに漢字の知識が(その歳にしては)あったことで、好きだった女の子と良い感じになれたということがあった。4年間クラスが同じだったものの5年から分かれてしまい、そこまで同じだったらもう少し色々違ったかもしれないと思う、そんなアレだった。お相手のお母様からも気に入られていたし、家に呼ばれたことすらもあったのだ。あれが全盛期だった。そしてそこまでだった。とはいっても勉強はそこそこできて良かったなと思う。あくまで小学生までだが。

ちなみに先生とのその一件や、全員足並み揃えろ同じ人間になれという担任のスタンスに保護者面談で触れた母はプッツンしてしまったようで、私立中学への進学を考えはじめた。
ゲームソフトがもらえるという甘言に唆され、腕試ししてみない?と受けさせられた謎の実力テストがそこそこの成績、そしてこれが入塾テストだったのである。ちなみにゲームソフトはもらえなかった。(規定の順位に入れず)
3年生の間だけ行くのかな?と思っていたらなぜか4年になっても通わされ、4年の夏くらいにやっと「中学受験」をするのだと知る。脳味噌お花畑か自分。

みんな同じに足並み揃えて、のほうが人生はイージーモードになる。これはマジ。そして多様性を受け入れ個性を大事に!というのは欧米では当たり前かもしれないのだが、日本ではハードモードである。そうは見えないけど実は傑物、みたいな人間にならないとこっちモードの人生はかなりエグい展開が待ち受ける。

人としての幸せとは何か。ありのままでいられることか。抑圧の中で生きることか。いずれにしても感じ方ひとつでしかないのだ。だから世の中を動かす構造に絶望する頭の良い人もいれば、阿漕な搾取に気付きもせず社会の中の「えらいひと」におんぶにだっこでなんにも疑問に思わず幸せを感じて暮らす人もいる。

哲学なんざどーでもいい。学者でもあるまいし飯は食えん。
ともかく、ハードモードで取り返しもつくのかつかないのか微妙な年齢まで生きてきてしまった自分で。もうほんとどうしようって感じである。

この歳まで彼女なし。ヤバい。浮いた話のひとつやふたつ大学時代まではあったのだけど、鈍感だったのか自己肯定感が低すぎたのか、学生時代にはフラグクラッシュと思しきシチュエーションと言動の履歴が多数見受けられる。
ちなみに中高は男子校だった。女子との接触がない青春時代。小学校卒業の少し前、同じ塾にいたフランス人形をそのまま等身大サイズにして動かしたような美少女から「一緒の学校行こうよ…」と切ない声で言われた逗子駅の連絡橋が忘れられない。第一志望の男子校とその子が受かった共学にも受かっていた自分、大人たちに何を言われるか…と怯えた自分には受け入れる器量がなかった。当時の子供で携帯電話を持っている子は稀で、卒業以来会うことはなかった。
大学時代は演劇に打ち込んでいて、やたら忙しくしていた。当時はそれでやってくんだくらいに思っていて、忙しい自分に酔いまくっていた。学生らしい青春を尽く棒に振っている。いつだってリア充とウェイは糞だと思っていた。なんか学生らしい華を持った話があるかと言われると、出会ってすぐやけに懐いてきて飲み会でキスまでしてきた女に告白して「好きだけどそういうんじゃないんだよな」とフラれ、後日なぜかそのフラれた女に誘われホテルで一晩明かすことになるも意地張って何もせず朝を迎えたりといった謎ダメエピソードが2,3あるくらいで(ピュアすぎでは?)、彼女の作り方とかもう全然わかんなくなってしまったというかそもそも知らない。なんなら友達との遊び方すらもよくわからなくなってしまっている現状。

それを別に不幸なこととはもう思っていない。幸せとは感じ方次第であり、独りは独りなりの楽しい人生がある。「取り立てて不幸ではない」という「幸福」は今、間違いなくこの手の中にある。なによりではないか。
一方で、兄弟もいないので自分が生涯独身なら末代になるし(万が一その手の人の恨みを買っても祟りを恐れる心配はなくなる)、子供はほしいし、子供を授かれれば自分が親にされて嫌だったことなどの反省を踏まえてしっかり幸せな人生を歩ませてあげたいと思う。褒めて、肯定して、話をちゃんと聞いてあげて、普段からポジティブをしっかり貯金して生きられる、そんな風に育ててあげたい。そんなことは常々思っている。

そんな未来は来るものだろうか、例えば母が祖母にしてあげているようなことを、自分は母にできるだろうか。難しい気がする。まず運転できないし。
やがて自分に介護が必要になってきたとき、一体どうしたらいいのだろうか。希望の光が少しくらいは残っていないと、いつか人生を諦めてしまいそうだ。怖いけど怖くない。絶対的な拒否の感情はない。

三途の川を自分から進んで渡りかけたことがある。寸前までいって初めてわかったことだが、死んだら何もない。ゼロですらなくなる。寝てる間はほとんど意識がないけど、あのまま意識が戻らないという、それだけのことだ。悲しさも後悔もなにひとつ残らない、消滅するだけだ。多くの人はおそらく、なぜか死んだあとに感情が残るという前提で死について話している気がするのだが、自分の中でその可能性は消えた。死んだら消滅だ。ただそれだけ。ちなみに幽霊ってのは生前の記憶を繰り返しているだけらしい。おったまげ。


生きているのは生きているからだ、としか言えない。生きていても死んでも別にどちらでもいいのだが、死ぬ理由がないし、死ぬのってすごく大変だから、わざわざやる理由がない。吐くほど嫌いな食べ物をあえて食べるやつがどこにいるんだ、ってのと同じ話。
ただ、このまま何も変わらないままだと、いつ人生を諦めてリタイアしてしまってもおかしくないな、と、長期的な目線では思っている。思っているけど、なんとなくずるずると緩慢に、生き続けてしまうんだろうなとは思う。たぶん人の寿命が20~30年くらいしかなかったら、自殺者の数ってとんでもないことになるんじゃなかろうか。平均寿命80歳くらいなのは社会的動物であるがゆえの、ある種の防衛本能なのかもしれない。

 

こんなことを日々考えて暮らしている。5兆円ほしいな。あったらもう少しいろいろできる気がする。

85 家と配信と砂浜カメ(いじめちゃダメ)

この状況下で有観客ライブを先んじて再開して続けているグループもいれば、配信ライブを積極的にやっているグループもいる。足踏み状態のところもある。どこも砂漠の中で1匹のノミ(それも砂の色や動物、他の虫の体色に擬態し、活発に動き回り、地中に潜る)を探すような状況だとは思う。
Twitterで、久々の有観客ライブに集まっているオタクを見ると取り残された気分になるし、ハッシュタグで実況され続ける配信ライブも観なかったら観なかったでそうなるのだろう。一応ホームスピーカーあるから大音量で配信ライブ観れるけど、ライブハウスのそれとは体験の質が違いすぎて、払った分の対価を得ているとは(平時と比較して)とてもじゃないけど思えない。

もちろん推しを支えたいという気持ちもあるし、配信ライブも自分なりに楽しんでいるけど、「浦島太郎にならないために金使ってる」感が100のうち51以上あることはどうにも否めない自分がいる。
でも昔から「周りと話を合わせるための努力」に潜んだ虚しさがどうにも気持ち良くなくて好きじゃないし、こんな現状は正直やってられないのだ。
一体いつまであきらめを前提にした経済活動をしなきゃいけないんだろう。無理にしなくてもいいのだけど。SNS依存的なところもあるし。

自粛期間(定義が謎)に入ってから、映画、演劇、ライブに1回ずつだけ行った。
映画と演劇には何も問題を感じなかった。大笑いをするような喜劇でもないし、観客が集中して観るタイプのものだったからかもしれない。
ライブがちょっと問題だった。どこかで言ったかもしれないが、最初こそ「コール&レスポンスをするので応えないで下さい!」とクレバーな煽り方をする演者がいて感心したものの、次のちょいとやんちゃな演者が「共犯者になりましょうよ」なんて言って声出しを煽ったところ、乗ってしまった観客が数名いた。その次の演者ではコールまで密かに起こる始末。自分の前にいた白髪の老爺はコールこそしなかったものの、MCでは大声で笑っていた。
「感染防止の対策を一生懸命しなきゃいけないのに!!!!ばかっ!!!!!」というよりは、全然問題ないと思ってる人も警戒してる人もいる、不安だけど応援したいからとか、どうしても生で観たいからとか、対策万全なら安心なんじゃないかとか、色んな考え持った人がいる中で、自分以外に対する想像力が欠けすぎじゃないのか、と思ったのだ。
ライブハウス側は充分すぎるくらい徹底的に感染対策を施していた。注意事項の周知も行っていた。まぁ諸注意を話半分に聞いてる奴なんてどんな集団の中にも半分近くはいるのだが。
要は集団みんなで99%安心できなきゃ何事もやってらんないと思っている。ちなみに1%は想定外の事故。風邪が移る程度の話ならともかく、コロナに関しては怖い話も多い。自分は専門家じゃないので、データを精査したところで過去の感染症の事例を詳しく知らないし、未来を予測しうるだけの医学・生物学・感染症学その他もろもろの学問の知識がない。故に結論を出せない、が結論だ。
先日の山手線で実施されたクラスターフェスにしたってそう。主義主張ごときで人は安心しない。あの人たちはどれだけ専門的な知識を有しているのだろうか。たまたま手元に流れてきた情報をどこまで自身で精査している?独善的すぎて吐き気がした。


最近はダイエットをずっとしている。キツめのトレーニングをしていると自然と糖質いらないやみたいな気分になってくるので、今までとは真逆で意図的に糖質を摂るようにしている。
体は引き締まってきたけど、脳筋化しているというか、文章力とか語彙力とか、それ以上にそれを創出する体力なんかが落ちてきているように感じる。
少し前に書き始めた小説は、まだ載せていない部分で世界観が肥大化しすぎてしまってなかなか続きを書けていない。

やることがあるのは良いことなのかだるいことなのか。
在宅研修の資料が家に届いたけど、勝手にやってレポート送れみたいな感じでやる気が蜃気楼のオアシスだし、やりたいことの期日にも追われているけど頭がなかなか動いてくれない。
減収は給付金で賄えないレベルで、緊急小口資金の貸付も返済を考えると及び腰になる。

前澤社長が1億円くれたら心配の種はあらかた消し飛ぶのだろうが、近所のコンビニまで買い物に行く道中、いきなり空から落ちてくるマシュマロをキャッチできるくらいの確率なのだろうなぁ。ファンタジーじゃん。